とあるフットボーラの肖像 - グラント橋の「国防大臣」


1960年代末、ルーマニアの首都ブカレストに居を構える鉄道労働者のクラブ、ラピド・ブカレストのフットボールグラウンドで鳴り響く歌があった。グラント・ブリッジの国防大臣、ダン・コーに捧げる賛美歌だった。

古きトロイからの叫び アホイ!
そして再び我らは守られる アホイ!
ダン・コーを讃えよ アホイ!
行け、ラピド!

今回は、2021-22年シーズンより長きにわたる雌伏を経てルーマニアのトップリーグへと返り咲いたFCラピド・ブカレストにかつて君臨したフットボーラーの話をしよう。

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1941年9月18日、ブカレスト・キブリット広場の近くでアルーマニア系民族の家庭に生まれたダン・コーは、戦間期に学生スポーツメンバーだった父ドゥース・コーの影響でフットボールへの情熱を受け継いだ。

1951年、わずか10歳でフットボールを始めた彼は、1956年に生涯その身を捧げることとなるジュレスティ(ラピド・ブカレストの本拠地エリアの名だ)への入団を決意した。ユースチームでセントラル・ディフェンダーとして頭角を表すと、1962年3月18日にトップチームデビューを飾った。

最終的に214試合への出場、12得点を上げ、キャプテンに君臨するなど華々しい成績を残したダンのキャリア最高の瞬間は1967年のリーグタイトル、そしてその後数年間の欧州大会での活躍だっただろう。結果、1970年には国より名誉称号を贈られることになった。

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1967年、ルーマニア代表チームのメンバーに選出されたダンはディナモイオン・ヌンヴェイラーステアウアブショール・ハルマジャーヌとともに鉄壁の守りを築いた。70年メキシコワールドカップ予選として1969年11月12日に開催されたポルトガル戦では、伝説的なストライカーであるエウゼビオと対峙。かつてのバロンドーラーである彼をして「1966年のワールドカップでダンのようなディフェンダーがいれば、ポルトガル代表が準決勝へと進出することはなかっただろう」と言わしめた。

また、同年5月14日にローザンヌで行われたスイス戦ではキャプテンマークを巻き、ゴールキーパーのラドカヌやディフェンダーのボクと協力してスイスの攻撃をシャットアウトし、現地紙は「ローザンヌの黄金三角形」との異名を付けた。

1971年から73年の間ベルギーのロイヤル・アントワープFCへと移籍し2シーズンプレーしたダンは、再び母国、そしてラピドへの帰還を夢見たが、高齢だったためクラブ側から申し出を却下された。その代わり、ドナウに本拠地を置くFCガラツィに加入して1974年に昇格を手助けした。

1974年12月8日、CSウニヴェルシタテア・クラヨーヴァ戦を6-0で勝利すると、ダンは足掛け23年のフットボール人生に別れを告げた。

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選手としてのキャリアを終えたダンは1975年、かつて所属していたアントワープからの誘いを受けベルギーへと渡った。そしてそこから妻プサ、娘ダナと共にドイツへ旅立った。

ドイツに到着すると、ダンは「ヨーロッパ・リベラ」というラジオ局に出演。ルーマニア国内で家族が送っている生活の苦しみ、特に政治的理由で共産党の刑務所に投獄された父デュークの苦難を全世界に向けて発信した。この番組出演後、すぐにセクリターテ(ルーマニア秘密警察)から尾行されるようになり、友人づきあいも希薄なものになっていったという。

ダンは前述の通りチャウシェスク大統領より国家勲章を受けていたが、それが政治批判を行わないという誓約となるものではなかった。だが彼の名はルーマニア国内ではあまりにも有名で、民衆から愛されていた。

ケルンに赴いた彼は政治難民となり定住資格を得るが、少年時代に夢見たフットボールの華々しい世界からケルンのルーマニア料理店の皿洗いの仕事の落差は想像に難くない。ライン川にほど近いケルン市内、ボナー通りの質素なアパートで、同じくルーマニアからドイツへと不法に逃れてきたルミニータという女性と牧歌的な生活を送った。

彼女が妊娠したことを知ったダンはドイツ語教室の門を叩き、ボンのコーチングスクールへ通った。ドイツでの人生設計は難民である彼にとって、何より大切なものだったのだろう。

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1981年10月19日、苦しみながらも豊かな時期もあったダンが40歳になった誕生日から1ヶ月後のこと。妊娠中だったパートナーのルミニータをルーマニア人医師のもとに送り届けることになったダンは、その日のドイツ語クラスは休みを取り家へと帰った。

ルミニータがアパートに帰宅すると、屋根裏部屋のバルコニーのドアでダンが首を吊っているのを発見した。膝を着いて倒れており、ラジエーターやドアノブなど周囲の物に寄りかかったり、足掻いたりした形跡はなかった。

医師たちは心肺を切開し直接蘇生を試みたが、徒労に終わった。

遺体搬出に必要な手続きのため正妻であるプサが警察に呼ばれたが、彼女は元夫を思い出に留めておくために棺桶の蓋を開けなかった。

ダンの変死はすぐに周りのものから疑問を投げかけられたが、ルーマニア秘密警察で当時まだ現役だった元保安官はこのように見解を語る。

「ダン・コーはチャウシェスクにとって、殺害を命じるほど重要な人物ではなかったでしょう。その殺害方法はチャウシェスクのシークレット・サービスとは似ても似つかぬもので、彼が住む場所での実行など論外だ。本来なら別の都市へと誘い出すのが正しいやり方だった」

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しかし、ダンのかつての友人たちは別の見解を持っている。

ドイツ時代の友人の一人は「ヨーロッパ・リベラでの発言後にセクリターテが彼を暗殺したという仮説を強く信じています。あのラジオ局で発言したルーマニア人はダンだけではありませんが、ただ出演しただけではセクリターテから狙われることはなかったでしょう。不幸にも彼は軍や虐待、弾圧について詳細を語ってしまった。それが彼の運命を決定づけたのでしょう」と話す。

ルーマニア時代から付き合いのある別の友人もまた、共産主義政権からの報復行為だったと考えている。その人物はなんとか3500マルクを集めて遺体を埋葬し、余った残りの金は出産を控えたルミニータに渡した。

ケルンの貧民墓地には、ダン・コーの墓石はすでに存在しない。トラクターで轢かれ、整地されてしまった。現地の警察は10年以上前のファイルを廃棄しており、この事件についての本当の詳細はついに闇のままだ。

ダンの元妻であるプサは現在でもドイツ・オーバーハウゼンで娘と暮らしており、ルミニータはパリに移住したという。共産政権崩壊後も、当局はダンが生きた最後の瞬間を紐解こうとはしない。それが鬱病による自殺だったのか。それとも共産政権による報復だったのか。理由は彼のみぞ知るだろう。

そして現在、ダン・コーの名は、時折彼を思い出しあの歌を歌うラピドファンの魂の中にしか存在しない。

(校了)

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