フットボールの話をしよう - 魂と誇りの夜

ヘラクレスら名だたる英雄を従えてアルゴ号にて海を渡り、金の羊毛と自らの王位を掛けて冒険を繰り広げたギリシャ神話の英雄イアーソーンをご存知だろうか。彼とアルゴナウタイの冒険譚は未だに世界中に轟いているが、その目的地となったコルキスは紀元前15世紀以前より地中海沿岸で繁栄を謳歌した南コーカサスの強国だった。


現在ではジョージアの名で知られるその歴史ある国家は、ギリシャによる征服やキリスト教化、モンゴル侵攻、イスラム教支配と帝政ロシアの庇護、そして直近ではソビエトの傘下に収まるなど激動の歴史を刻んできた。

イアーソーンさながら、冷戦時代に彼の地へフットボールの覇権を握るために旅をしたチームがあった。1970年代中盤から80年代初頭まで欧州タイトルを恣にした英国北西部の強豪、リバプールFC。彼らが地中海の溶暗に見た景色と、その冒険の果てに得たものとはなんだったのだろうか──今日はそんな話をしよう。

◇◇◇

1978年9月27日。最終的にはヨーロピアンカップを戴冠することとなるブライアン・クラフのノッティンガム・フォレストに衝撃的な敗北を喫し早々に欧州の大会を退場して以降、リバプールファンはオアシスを探す砂漠の彷徨者のように再びのトロフィーを渇望していた。

英国内では78/79シーズンに勝点68、得失点差69と驚異的な成績で11度目の優勝を飾った(勝利が2ptsだった時代でのことだ)。昨シーズンの宿敵フォレストを勝点8差で引き離したことが僅かばかりの慰めにはなったかもしれないが、前年まで欧州2連覇だった赤の軍団がそれで満足するはずもなかっただろう。勝ち抜いていればアヤックスの伝説に名を連ねる可能性もあり得たのだ。

2月にシド・ヴィシャスがヘロインのオーバードーズでこの世を去り、5月には鉄の女マーガレット・サッチャーが首相に就いた。劇場ではリドリー・スコットの「エイリアン」や「ドラキュラ」が公開され、人々は未知なるものへの好奇心を昂らせた。1979年とはそんな年だった。リバプール市では過去10年間で300を超える工場が閉鎖または移転を余儀なくされ、40,000人の雇用が失われた。だが、リバプールFCは街の誇りであり続けた。胸のシャツ広告を英国で初めて着用したのもこの年のことだった。

ヨーロピアンカップは、現在のレギュレーションとは違い、欧州各国のリーグ王者32チームに前年度覇者のノッティンガム・フォレストを加えた文字通りの「チャンピオンズリーグ」だった。北アイルランド王者のリンフィールドとアイルランド王者のダンダルクによる控えめな予備予選が行われた後、9月にようやく本大会が始まった。

第1回戦、リバプールの対戦相手はソ連王者のディナモ・トビリシに決まった。今とは何もかもが異なる時代で、さらに東西冷戦による鉄のカーテンも健在だった。情報を得るためには足を使うしかない。ボブ・ペイズリーはマッチデイ・プログラムに次のような率直なコメントを残した。

「私達は初めてロシアのチーム(原文ママ)と戦う。正直な話、昨シーズンのフォレスト戦よりも厳しい戦いになると言えば嘘になるだろう。彼らはフォレストよりも与し易い相手だろう。だが、それでも難しいことに変わりはない。向こうはすでにシーズンインしており、最高のフィットネスで向かってくるのだから」

ブートルームの一員としてシャンクリー在任時より長くリバプールに仕え、当時はペイズリー指揮下で主任スカウトを務めた賢者トム・サンダースは未知なるチームの情報を求め東欧へ派遣されていた。ソヴィエトリーグは3月にシーズンを開始しており、ディナモは2連覇を目指し戦っている最中だった。後に、サンダースはこのように述懐する。

「鉄のカーテンの向こう側は冒険だった。英語が話せぬクラブ関係者は私を歓迎してくれ、数日間の視察で深く関係を築いた。ディナモのスカウトがこちらへ到着した際はブートルームに招待し、ギネスを振る舞ったよ。その後も関係は続き、長きに渡ってクリスマスカードを交換し合ったのだ」

1979年9月19日の夜、ペイズリーとリバプールの面々、そしてスピオン・コップが目にしたものは鮮烈で衝撃的な光景だった。

◇◇◇

ディナモ・トビリシにはいくつかの黄金時代があり、最初に挙げられるのは1964年の「黄金の少年たち」の世代だろう。フランス・フットボール誌で「南アメリカのフットボールの伝統を受け継いだ最高の東欧クラブ」と称賛されたディナモには、1960年の欧州選手権で優勝したソヴィエト代表のスラーヴァ・メトレヴェリや「グルジアのガリンシャ」と呼ばれたミへイル・メスヒが所属していた。

彼らはウズベキスタンの首都タシケントにてトルペド・モスクワを4−1で下し、クラブ史上初めてソヴィエトリーグの栄冠を獲得した。だが、ソヴィエトのクラブが欧州大会に出場するのはまだ先のことだった。

トビリシはかつてより現在に至るまで、スポーツの盛んな土地だった。市内にはオリンピックサイズの屋内プールや屋外プールが点在し、バスケットボールとバレーボールのコートが400近く、テニスコートも多くある。フットボール場は30箇所以上で、スタジアムも4つを備える。1975年に高速道路建設省の本部となる近未来的デザインのビルが完成(現在のジョージア銀行本部)した。その姿はソヴィエトが目指した共産主義文明の理想郷だった。だが、それはあくまでソヴィエトの理想郷でありグルジア民族のものではなかった。

グルジア語が1977年制定のソヴィエト憲法(ブレジネフ憲法)で国語から削除されたことに憤慨した住民たちは、大規模なデモを敢行した。その結果、グルジア共産党第一書記だったエドゥアルド・シェワルナゼとモスクワ政府との間で交渉が行われ、譲歩を引き出すことに成功。ロシア語の他、州内ではグルジア語も公用語として認められることになった。彼らはソヴィエトに無批判に従属することをよしとせず、自らの豊かな歴史と文化を誇りとした。ディナモ・トビリシはその結晶のような存在だったのかもしれない。

1970年代には欧州に進出しナポリやインテルを破壊するなど印象的な活躍を見せた彼らは、1976年にノダール・アカルカツィを監督に迎え、ついに第2の黄金期を築き上げることになる。機動性と技術性を兼ね備えたディナモは、特に際立った成果を残した1976年から82年までの6年間を「グレートチーム」の二つ名で呼ばれた。76年に初のソヴィエトカップ優勝、78年には2度目のソヴィエトリーグ優勝と輝かしい成績を引っさげ、初めてヨーロピアンカップに臨んだのが79/80シーズンだった。

◇◇◇

白のユニフォームに包まれたディナモの面々がアンフィールドでウォームアップを行なった時、スタジアムに駆けつけた35,000人のリバプールファンの誰もがホームチームの勝利を期待していただろう。主力のアラン・ハンセンレイ・ケネディが負傷していたにもかかわらず、その自信は揺るぐことはなかったはずだ。

だがアカルカツィと7人のソヴィエト代表を擁するディナモは別の考えを持っていた。試合開始の笛が吹かれると、ピッチ上では至るところに白のシャツが踊り、ボールを長時間保持することのないティキタカが繰り広げられた。その姿はブラジル代表のようだったと言う者もいる。攻撃の中心は司令塔のダヴィド・キピアニその人だった。

前半20分に右サイドからのクロスに頭を合わせたデヴィッド・ジョンソンが先制点を奪ったが、ディナモの攻撃は苛烈なものだった。30分にはリベロのアレクサンドル・チバーゼが自陣から飛び出し、22歳にしてソヴィエトのプレイヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した若き天才ストライカーラマス・シェンゲリアにボールを預けると、そのまま攻撃参加してリバプールで伝説的な守護神だったレイ・クレメンスを後ろ手にゴールを決めた。

前半終了間際に相手ボックス外ギリギリの位置でケニー・ダルグリッシュが倒され得たFKは、ジミー・ケースが直線的に蹴り込んだボールがジャンプしたディナモの選手の足元をするりと通過してそのままゴールに収まった。そして、その後45分間はスコアボードが動くことはなかった。ホームで2−1と悪くない結果を手にしたリバプールだったが、それ以上に対戦相手のパフォーマンスが予想よりも遥かに素晴らしかった。失点しなかったのは、ただ単に幸運だっただけだと多くのファンが考えていた。

この夜、正守護神だったダヴィド・ゴギヤの代わりにゴールを守ったオタール・ガベリヤは後にこう振り返る。

「数年前にシェンゲリアとともにディナモへ参加したが、キピアニやチヴァーゼウラジミール・グツァエフといったすでに華々しいスターだった選手たちからも歓迎された。アカルカツィはディナモの成功にすべてを捧げた男で、クラブは素晴らしい人々ばかりだった。誰もが一つの大きな目的を共有していた。それは一夜にして起こることはなかったが、この試合では私達がその階段を駆け上がっていることを示せた」

彼は後に271試合に渡ってディナモのゴール前に立ちはだかり、歴史の証人となる人物だ。

◇◇◇

続く第2レグはアンフィールドから2,500マイル以上離れた鉄のカーテンの向こう側、トビリシ市の誇るボリス・パイチャーゼ・スタジアムで行われた。スタンドには90,000人の観客が詰めかけ、アンフィールドを遥かに超える声量でホームチームを鼓舞し続けた。リバプール陣営は通常ヨーロッパへの遠征の際に使うはずのチャーター機の使用がソヴィエト政府によって許可されず、モスクワ経由での長距離移動を余儀なくされた。同行できたのはチームメンバーと役員、そして勇気ある少数のファンのみだった。

10月3日水曜日、16時の試合だった。

前半終了時点でゴールはまだ生まれていなかったが、ボールと人が動き続けるディナモのスタイルは明らかにリバプールに混乱を引き起こした。後半開始時には多くの選手の足が止まり、体を張って相手選手の進撃を阻止するのがやっとという状況だった。

54分、ついに試合の均衡が破られた。右サイドから攻め込んだディナモはコーナー付近のオープンスペースにボールを走らせ、キピアニが鋭く矢のような低いクロスをゴール前に突き刺した。ディフェンスラインの背後を抜けていったボールは、すでにボックス内に侵入していたグツァエフがネットを揺らすのに何の問題もない高精度なものだった。スタンドは歓喜に沸き立ち、ピッチ上では白と黒の縦縞を身に纏った選手たちが抱擁しあっていた。1−0。しかし、衝撃の試合はまだ始まったばかりだ。

75分、今度はセンターバックのギオルギ・チライアが自陣からボールを持ち上がり、50ヤードもの間左サイドを蹂躙した。スルーパスはシェンゲリアへと渡り、クレメンスと1対1の状況。この決定機を外してくれるほどの寛容さを、若き天才は持ち合わせていなかった。2−0。さらに群衆の声が大きくなる。

そしてデザートの最後のひとくちを食べたのはチヴァーゼだった。グツァエフがボックス内で倒されて得たPKを、冷酷にネットに蹴り込んだ。81分、3−0。赤いシャツの軍団はただ俯き、芝を見つめるしかなかった。試合終了の笛が吹かれると、群衆の熱狂は頂点に達した。ピッチは侵入してきたファンに占拠され、選手と喜びを分かち合った。アグリゲート4−2。レッズの夢は、再び秋の空に虚しく消え去っていった。

ケニー・ダルグリッシュは自伝の中で次のように回想している。

「ディナモは3−0で勝利を収めた。彼らは私達が対処できなかった素晴らしい試合をした。リバプールは再び最初の対戦カードでヨーロッパから脱落した。ノッティンガムの敗戦が苦痛だったとしたら、この敗北は懲罰的なものだった。部屋の片隅に棺桶のように横たわる木製のレコードキャビネットに体をぶつけ、BBCの解説が終わった。私はトロフィーのない残りのシーズンについて考えていた」

しかしながら、少なくともこのシーズンは、ディナモ・トビリシのおとぎ話は唐突に終わった。次のラウンド、最終的な決勝進出チームとなるハンブルガーSV相手にアグリゲート6−3で敗れ、早々と欧州の舞台から姿を消した。クラブのチーフだったピーター・ロビンソンは、かつての同僚でハンブルクでプレーしていたケヴィン・キーガンに連絡を取っていた。この東欧のクラブを侮ってはいけないと。

そして、ヨーロピアンカップは2年連続でブライアン・クラフの元に渡ることとなった。

◇◇◇

ディナモは翌シーズンも英国のクラブと対戦し、見事な活躍を見せた。

彼らは1981年のカップ・ウィナーズ・カップ準々決勝でウェストハム・ユナイテッドと対戦することになった。ブーリングラウンドで行われた第1レグは、アウェーチームによる知性あふれるフットボール教室の様相を呈した。ハマーズの選手たちはスコアを保ちながら白い影を追いかけ続けたが、最終的には4−1で敗北した。

一連の迅速なワンタッチパス、そして無慈悲なまでに正確な才能あふれるアタッカーたちのシュートは母国のフットボールファンをも魅了した。テクニカルでアジリティに溢れ、自らのテンポをパスアンドムーブで作り上げるアカルカツィのフットボールは昨シーズンよりも明らかに完成度を増していた。そして、それに対処する術をリバプール同様ハマーズの選手たちは持ち合わせていなかった。

ハマーズファンは目覚ましいショーを見せてくれたディナモの選手たちへの拍手を惜しまなかった。ファンジンには「ソヴィエトの巨匠が私達にレッスンをしてくれた。西を粉砕するための魔法をワルツで織り上げた。彼らをロシア人と呼ぶべきではない、彼らはジョージア人だ」と試合の感想が寄稿された。

フェイエノールトに準決勝で勝利すると、西ドイツ・デュッセルドルフで行われた決勝戦は東ドイツのカールツァイス・イェーナとの対戦だった。そして、その試合も2−1で勝利した。ゴールを決めたのはグツァエフ、そして1年後に交通事故で亡くなるアブハジア人ミッドフィールダーのヴィタリー・ダラセリアだった。

彼らはついに大陸での栄冠を勝ち取った。再び、ガベリヤの弁を引用しよう。

「1981年に私達の夢が実現した。それは真摯な努力とプロ意識によって叶ったものだ。全選手と監督、スタッフはグルジアの人々に幸せをもたらすために全力を尽くした。私はこの決勝が行われた5月13日を、私達自身の誕生日と同じように祝いたい」

昨シーズンの雪辱に燃えたリバプールもまた1981年に記念碑を勝ち取ることになる。それはパリでのヨーロピアンカップ優勝だったが、この物語については別の話だ。ここで一つだけ触れておきたいのは、本来であれば81/82シーズンにヨーロピアンカップ王者とカップウィナーズカップ王者の間で行われるはずだったスーパーカップがリバプール側からの申し出で開催されなかったということだ。

公には第1レグ、第2レグの2試合を行うスケジュールが空いていなかったためとリバプール側は弁明しているが、それを信じるディナモのファンは誰もいないだろう。

◇◇◇

2001年9月、訃報が走った。50歳になったキピアニが交通事故で亡くなったというものだった。ニューヨーク・タイムズでは彼の才能と芸術性を称賛し、弔った。

彼に限らず、グレートチームでプレーした選手たちは皆、西側で生まれていたら億万長者になったかもしれない。また、もしもロシア人として生まれていれば亡命の欲求に駆られたかもしれない。だが、彼らはソヴィエトではなくグルジアの魂を持っていた。そして、リバプールもまた街の誇りを胸に戦い、敗戦をくぐり抜け欧州王者に返り咲いた。

本来なら交わるはずのない、2つのチームの魂と誇りが交差し煌めいた──これはその黄金の夜の物語だ。

(校了)

コメント