とあるフットボーラの肖像 - 30秒が世界を変えた

多くの方々にとってアサレア・デ・カンポス・ミケリ・メディナという名前は何の意味もなさないだろうが、フットボール、ひいてはスポーツ界全般における男女差別との闘いにおける彼女の貢献は、根源的なものだった。

事実、レア・カンポス(この呼び名でよく知られている)は、歴史上初めて正式に認められた女性審判員だ。女性がフットボールをすることが問題視されていた歴史の濁流の中で、フットボールプレイヤーになる代わりに審判になることを望んだ女性への偏見を想像してみてほしい。 今日は彼女の話をしよう。ブラジルの独裁政権、そして性差別と戦い、あらゆる逆境を覆した女性の物語を。

1945年、ブラジル南東部に位置するミナスジェライス州・アバエテ市に4人兄弟の最年長の姉としてレア・カンポスは生を受けた。幼少期より活発な少女で、初めてフットボールをプレーしたのは7歳の頃。本格的にのめり込んだのは高校時代からだった。178cmという恵まれた体躯で前線を駆けるフォワードとしてピッチに立ち、ブラジルではフットボールに次ぐ人気を誇るバレーボール選手としても活躍した

時の独裁者ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは女性によるフットボールを禁止しており(この禁止令は1979年まで続いた)、レアは3歳の頃に移り住んだ州都ベロオリゾンテの労働者階級居住区で秘密の試合を行い続けたが、時に警察に逮捕されることもあった。

両親は愛娘をフットボールから遠ざけるため、8歳の頃に歌や詩、演劇といった文化的な素養を植え付けようと試み、コンテストにも参加させた。彼女の人前で話す才は群を抜いており、州知事主催レセプションでのスピーカーに選ばれた程であったが、彼女自身は男女が別々に遊ぶ子供時代を快くは思っていなかったと後のインタビューで語っている。

また、「ハイーニャ・ド・カルナヴァル」(カーニバルの女王)や「ハイーニャ・ド・エゼルシト」(陸軍女王)といったいくつかの美人コンテストに出場し、その美貌で優勝を攫ったこともあった。この頃、コンテストを勝ち取ったという評判から州の選挙活動に加わるよう要請を受け何人かの政治家のキャンペーンに加わっている。後の彼女の足跡を振り返ると、若かりし頃の政治への接触は大きな力となったと言える。

ベロオリゾンテに居を構えるクルゼイロECのサポーターとしての血を継承し、レアは「ハポーザ」の愛称で知られる(ポルトガル語でキツネの意)チームの試合に足繁く通ったという。他のサポーターとともにT.O.C.A(Torcida Organizada do Cruzeiro Acadêmico)と呼ばれるサポーターグループを結成したこともある。さらに、その縁で1966年にクルゼイロの広報室に入り、短期間ではあるがスタッフとして選手たちを支えた。

兄を頼って通ったブラジリアの大学でジャーナリズムの学位を取得したリアだったが、キャリアの最初の一歩として報道に関わるのは自然なことだった。故郷のベロオリゾンテに戻った彼女はミナスジェライス州のラジオ局に入社し、ブラジルで初めてのピッチレポーターの一員となった。


彼女のフットボールへの愛はジャーナリズムに留まるようなものではなかった。大学ではジャーナリズムのほかフットボールとボクシングを専門に体育の学位を取得していたが、1967年、突如としてレアはミナスジェライス州の審判学校へと入学した。在学中の8ヶ月間、男子との体力差を補うために午前中は警察大隊の兵士たちに混じり訓練に取り組むという熱の入り様だった。

その甲斐あって在学中の成績は優秀、そして最後の実技試験として行われた模擬試合でも満場一致での承認を受けることとなったが、ミネイラ・フットボール連盟が彼女へライセンスを交付することはなかった。

不運なことに当時のブラジルフットボール連盟の会長はジョアン・アヴェランジェだった。後にFIFAを支配し、フットボールの商業主義化への道を開いた人物だ。アヴェランジェは、自分が責任者である限りブラジルフットボール界に女性審判は存在しないと宣言し、彼女が取得していたディプロマを授与することを拒否したのである。

アヴェランジェがこのように宣言できたのは、実はもうひとつの規則があったからだ。国家スポーツ評議会(CND)の会長であるエロイ・デ・メネゼス将軍が署名した1965年の決議第7号である。この決議は、前述の女性のフットボール参加を禁じる1941年政令第3199号第54条を補足するもので、「女性の性質」(具体的には月経)が特定のスポーツと相容れないことを示し、それを根拠に女性の実践を禁止するものであった。

しかし彼女は屈しなかった。すぐにその事実を自らのホームグラウンドとも言えるスポーツ新聞でリークしミネイロ・フットボール連盟に圧力をかけると、ミネイロ側は即座に最高機関と言えるブラジルフットボール連盟へ上奏した。彼らはレアに執拗に身体検査を迫ったが、レアはその要求にすべて応え、結果的に自らの身体には何の問題もないことを証明し続けた。

この時点でレア・カンポスの問題は全国的な事件の様相を呈しており、国内のさまざまな保守層を心配させるほどになっていた。ベロオリゾンテで女性たちが侮辱的なスローガンを唱えながらアルフォンソ・ペーナ大通りでデモをしたり、サンパウロの女性たちがブラジルフットボール連盟に、彼女に審判の免状を与えないよう嘆願書を送ったりしたのは偶然ではない。

しかしレアの不屈の情熱を鎮火するにはそれ以上のことが必要だった。彼女はその間、スポーツジャーナリストとしての公式の仕事と、サンパウロの放送局ラジオ・ムヘールでフェミニズム番組の司会を務めるという独裁政権時代には革命的行動とも言える地下活動を続けていた。また、連盟との闘いの中でかつて培った政治的人脈を掘り起こし、さらには法律知識を学び直すことで武器を揃えていったのである。


勝利のアシストを提供したのはFIFAだった。1971年にメキシコで開催された女子フットボール国際大会のイタリア対ウルグアイ戦の審判にレアを正式に招いたのである。だが彼女がメキシコに行くためには審判学校の卒業証書が必要だった。

それを手に入れるために彼女は、ガラスタス・メディチ共和国大統領(決して進歩的とは言えず、ブラジル史上最悪の大統領と評する者も多い)へ接触した。のちに語られたところによると、彼女にとって大統領は「最後から2番目の砂浜」(大統領でダメならローマ法王へ行くしかないと考えていたようだ)の存在だった。

彼女はメディチ自身がベロオリゾンテを訪問したときに与えられたチャンスに飛びつき、大統領が滞在していたホテルのロビーに現れ、これ以上時間がかからないことを保証して、30秒の面会を取り付けることに成功した。震える舌先で、頭の中で何度も反復した言葉をそのまま大統領に伝えた。

「ジョアン・アベランジェに手紙を送ってほしいのです。メキシコで女子フットボールの審判をすることになったのですがブラジルには女子フットボールが存在しないので、この招待へのブラジル代表としての正式な許可が必要なのです」

この間、わずか26秒だった。残りの4秒は、翌週の月曜日にブラジリアで大統領一家との昼食会を約束するために使われた。その会食でようやく「手紙というより紙切れに書かれたメモ」を受け取った彼女は、大統領閣下による最高級のもてなしを受け、そのまま軍用機でアベランジェの待つリオデジャネイロへと送り届けられた。

その日は偉大なるペレの引退記者会見当日だった。彼女は手形を懐に潜ませアベランジェの部屋のドアをノックした。ブラジルが世界に誇る神の引退に際し、会場には大勢の記者たちが集まっていた。メモを読んだアベランジェは午後遅くに行われる予定だった会見を前倒しにした。その時彼の口から語られた言葉をレアは明確に記憶している。

「今日は信じられないほど幸せです。なぜなら、私には任期中に初の女性プロフットボール審判員を世界に送り出す機会があり、それは私の管理下にあるからです。世界初の女性主審がブラジル人であり、ブラジルフットボールの最高の代表として歴史に残ることを世に知らしめることができ、大きな誇りと大きな幸せを感じています」

翌日の紙面にはペレとともにレアの名が踊った。奇しくも両名ともにミナスジェライス州の出身であった。



数日後、ライセンスを手にしたレアはメキシコに向けて出発し、そこで主審を務めることになった。女子代表チーム6カ国が正式に大会に参加しており、彼女の担当は1972年4月16日のジョルナル・ド・ブラジルでのイタリア対メキシコ戦だった。大会終了後も審判として活動を続け、ラテンアメリカのさまざまな国を旅した。ポルトガル、フランス、スペイン、オランダといったヨーロッパ諸国での仕事の機会もあった。

しかし、運命は彼女に再び試練を与えた。1974年2月28日、レアはアベランジェ自身が経営する会社のバス内で事故に遭い、2年間の車椅子生活を余儀なくされ、結果的にフットボールの活動を断念せざるを得なくなってしまったのだ。この事故には大いに疑念の余地があり、彼女自身も事故当初は裁判を試みたと言うが、不可思議なことにその証拠が消滅してしまい最終的には敗訴してしまったという。

審判としてのキャリアを早期に終えた後も、レアは女子フットボールのための活動を続けた。法律上女性のフットボール参加が禁止された70年代に自身の名を冠したカップ戦を執り行い、スポーツにおける女性の地位向上のために精力的に働き続けた。大学時代にフットボールと同時に学んだボクシングへの情熱も保ち続け、ミナスジェライス拳闘連盟のコースを修了し、ボクシング、そしてレスリングの主審となったこともある。また、ジャーナリストとしても活躍の場を広げ続けた。未だ現役の記者として幾つかのメディアで筆を執る。

わずか30秒でこじ開けた鉄の門。そこから溢れ出た女性のフットボールへの情熱は世界中へと広がり、その勢いはとどまるところを知らない。彼女は自身の生涯を振り返り、このように話したことがある。

「私は 75 歳ですが、Nao(英語でNo)を受け入れたことはありません。 Nも要らない、Aも要らない、Oも要らない。Sが欲しい、Iが欲しい、Mが欲しい(Sim=英語のYes)。私はいつもそのNaoの3文字をSimに置き換えていたので、ありえないことでも実現できたのです。軍事政権時代、私はエミリオ・ガラスタス・メディチの門を叩き、助けてもらいました。なぜあなたの思い通りのものが手に入らないか?答えは『戦え!くそ!戦え!』です」

そして最後に彼女の最大の敵であったアベランジェの敗戦の弁を借り、この物語を閉じたい。

「なんてことだ、この女は決して諦めないんだよ!」

(校了)

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