フットボールの話をしよう - カルチョ、鉛の時代


1980年8月2日、幼いアンジェラ・フレスは朝のラッシュ時に母親の後ろに隠れようと、よちよち歩きの足を動かしていた。ボローニャ中央駅は、
国内外の多数の観光客にとってイタリアの北と南を繋ぐ拠点だった。アンジェラの母マリアは、街の蒸し暑さから逃れて、ガルダ湖で素敵な休暇を過ごす計画を立てていた。その夏は焼けつくようで、あまりの暑さに行政は駅構内にエアコン付きの待合室を設置することにした。当然、そこは旅行者のオアシスだった。

その直後、彼らの下にあったスーツケースが爆発した。


ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞したイタリア映画会の巨匠、マルコ・ベロッキオが発表した「夜の外側 イタリアが震撼した55日間」。彼のライフワークとも言えるイタリア近現代史の再解釈を見事にやってのけたこの作品が、日本でも公開された。

2003年発表の「夜よ、こんにちは」でも描いた赤い旅団によるアルド・モーロ元首相殺害事件を今度はさまざまなパースペクティブから構成した本作は、改めて人の命の尊厳とイタリア社会の歪みを浮き彫りにした。

今回は事件の背景ともなった、暴力が支配したイタリア70年代(いわゆる「鉛の時代」)に政治とフットボールがどんな関係を持ったのか。その蜜月について話をしよう。


犠牲者の遺体の一部が発見されたのは数ヶ月後のことだった。この悲劇的な朝、合計82人が殺害され、イタリア現代史における最悪の悲劇となった。

サンドロ・ペルティーニ大統領は7時間後にヘリコプターで到着し、国家が直面している脅威の深刻さを次のように表現した。「言葉がありません。我々はイタリア史上最悪の犯罪組織に直面しています。」確かに彼の言葉は正しかった。イタリア共産党は、大した証拠もないのにすぐにネオ・ファシスト勢力に責任を負わせたが、この攻撃は極左によっても容易に画策された可能性があると考えられていた。

ちょうど2年前、ボローニャ事件の前兆となる警告があった。1978年のアルド・モーロ首相誘拐事件である。犯人は極左グループ「赤い旅団」だった。彼は、初めて共産党からも支持されていたキリスト教民主党のジュリオ・アンドレオッティに支持票を渡すための移動中だった。

突然、ローマの通りが封鎖された。その直後、モーロのボディーガード5人が地面に倒れて死亡した。モーロ自身も車の後部に押し込まれた。

その後数週間、イタリア政府は交渉に対して強硬な姿勢を取った。教皇パウロ6世は誘拐犯にモーロを解放するよう懇願し、引き換えに自らを差し出すことさえした。結果、10発の銃弾を受けて彼は殺害され、遺体はローマ市内の路上に駐車されていたルノー・4のボンネットから発見された。その数日後、教皇が彼の葬儀ミサを執り行った。

この激動の時代は「鉛の年 (Anni di Piombo)」という名で記憶されている。1970年代後半から80年代にかけ、左派と右派の派閥間の政治的緊張が日常的な暴力に発展し、過激主義が常態化した時代だ。

半島全体で混乱が広がる中、いくつかの都市は時代の苦境と絡み合い、表面化した歴史的アイデンティティを持っていた。これは、ミラノ、ローマ、ヴェローナ、リボルノなどでフットボールファンのグループが誕生したことで利用され、方向づけられた。

イタリア全土が路上や路地裏での組織的暴力という切迫した問題を抱えていた一方で、イタリアカルチョ界に萌芽した台頭する「ウルトラス」は過小評価されていたと言える。彼らは各地の競技場を占拠することを許され、政治的過激主義はスタジアムに安全な避難場所を見つけた。1970年代の終わりまでに、極左と極右はこぞってイタリアのスタジアム内に独自の小規模な政治「本部」を設立していったのだった。

1982年末までに、このような政治の時代を彩った両派の急進主義者たちは国家によって一時的に沈静化された。イタリアは1982年のワールドカップでのアズーリの成功と時を同じくして黄金期に入り、諸問題は保留された。経済の安定性が増し、産業の中心は労働組合と製造業から高級素材、ファッションへと移行していった。

しかし「鉛の時代」は大きな打撃を与え、今もなお続く永続的な負の遺産を残した。


この時代、無政府状態が社会を不安定にし、若者の集団はアイデンティティと組織を求めるようになった。日曜日の午後、スタジアムが教会に取って代わり、ファンが団結して情熱を表現し、不満をぶちまけ、さらには政治的な熱意を表明できる場所となった。

政治的緊張がファングループを形成し、彼らは政党やイデオロギーに同調し始めた。社会的・文化的混乱は、各クラブのファンの政治パラダイムとして作用した。これらのグループの一部はカウンターカルチャーの一形態であり、第二次世界大戦後に制定された民主主義の価値観に挑戦した。これにより、ウルトラスグループは極右・極左両派からの信念を採用し、暴力が彼らの手段となった。年齢を問わずこうしたファンの中には、一般的なフットボールファンのチャントや激励、ちょっとした小競り合いといったレベルを超えてゲリラ精神に駆り立てられた政治的侵略者と化す者たちもおり、所属クラブよりも政治的忠誠心を重視するようになった。やがて世間は彼らを「ウルトラス」と呼ぶようになった。

ミランの左翼グループ「フォッサ・ディ・レオーニ(ライオンの巣)」は、1968年に結成され、この考え方の要素を示した最初のグループだった。 1975年には、後にモーロを殺害することになるグループから名前を取った「ブリガーテ・ロッソネーレ(赤と黒の旅団)」が続いた。イタリアのトップクラブの周囲では旗が掲げられ続けた。

一方、過激右翼にはこの状況に対抗する独自のクラブが多数あった。「フォッサ」の登場直後にインテルの「ボーイズSAN」が続き、ラツィオの誇り高きネオファシスト支持者と同盟を組んだ。「SAN」は第二次世界大戦後に存在した分裂したファシストグループにちなんでその名前を採用した。これは、ムッソリーニは征服されたがその神話は依然として新世代に訴えるものであったことを示している。通常、グループは、第二次世界大戦における地域の経験に基づいた哲学を採用した。

リボルノの市民基盤は極左への転回をもたらした。この街は、ルネサンス期のフィレンツェで、漁師や港湾労働者がメディチ家当主から身を守るために団結したように、最初の労働組合のいくつかの本拠地となった。1921年には、共産党がここに本部を置いたほどだった。ゲリラ服を着た支持者は、ヨシフ・スターリンやチェ・ゲバラの緑の服を着た。鎌と槌は、IRAとパレスチナ解放を公然と支持するアマラントの信奉者の旗の定番だった。それらは、急進左派の原型となった。

特定のファンはより軍事的になり、「ウルトラス」へと進化した。フットボールは二の次となり、暴力は社会の隅々まで波及した。


ラツィオは、1960年代後半に最初のグループが出現して以来、直線的かつ継続的な実践でネオファシズムを受け入れてきた。2000年代初頭でさえ、彼らのキャプテンであるパオロ・ディ・カーニオ(彼自身もクラブのユースチームの一員だった頃、日曜日にはウルトラスと一緒にラツィオを応援していた)は、クルヴァ・ノルド(北側ゴール裏)に向かってファシスト式敬礼を叫び、自分は「ファシストだが人種差別主義者ではない」と主張した。

2017年後半、同じグループの人々はローマの衣装を着たアンネ・フランクのステッカーを配布した。グループは「嘲笑やからかいは犯罪ではない」と主張した。このあからさまな反ユダヤ主義の表現は、ホロコーストの最も有名な犠牲者を矮小化しただけでなく、悲劇的な出来事そのものをも矮小化した。

最近解散したラツィオの極右ウルトラス界のリーダーであるイリドゥチビリは、サッカースタジアムを利用して極右思想、特に人種差別や差別を表現してきた歴史がある。彼らの悪名高いリーダーであるファブリツィオ・ピシテッリ、別名「ディアボリック」の最近の殺害も、マフィア的な殺人の特徴をすべて備えており、これらのグループがより広範な犯罪組織と密接なつながりがあることを思い起こさせた。ディアボリックは鉛の時代、スタジアムで10代のストリートファイターとして育ち、彼が設立に協力したグループであるイリドゥチビリの頭首になった。彼は、「オリジナルファン」という会社名でサッカーと過激主義をビジネスに変え、数百万ドルの純価値を生み出した世代の一人だった。

ディアボリックが率いる時代、クルヴァ・ノルドではスワスティカと反ユダヤ主義が当たり前になった。わずか5年でイリドゥシビリは戦闘をいとわない姿勢からラツィオで最も強力なグループとなった。ディアボリックが2019年に死亡する数年前、彼は230万ユーロ相当の財産を没収された。コモラとアルバニアのマフィアとのつながりや彼の贅沢な生活についての噂が飛び交い、最終的に当局に通報された。

同じ街のASローマはファシストであったイタロ・フォスキが複数のローマ市内のクラブをまとめ上げて設立されたという歴史的背景から伝統的に極右勢力が力を持ってオリンピコのクルヴァ・スッド(南側)を占拠していたが、1970年代前半に2つのウルトラス集団が結成された。1つは極左に忠誠を誓ったフェダイン、もう1つは極右に忠誠を誓ったボーイズ・ローマだった。どちらも政治、暴力、サッカーを自由に混ぜ合わせていた。

1977 年にはフェダインとパンサーズ、フォッサ・ディ・ルピが統合されて「コマンド・ウルトラ・クルヴァ・スッド」(CUCS)が結成され、ボーイズと双璧を成す。彼らはフットボール史上最大の旗を掲げて団結を宣言し、「CUCS」は政治的イデオロギーではなくクラブのために戦うことを誓い合ったしかし、やがてこの巨大グループはカルロ・アンチェロッティの移籍と元ラツィオの選手でアンチローマの思想を表明したこともあったリオネッロ・マンフレドーニア獲得により破綻することとなる

CUCSから分離したフェダインは、今日に至るまで戦闘的なアプローチを取っている。思想自体はいくぶんか非政治的になったが、反対派の過激派に対する暴力的な傾向は残っている。近年では、リバプールのファンであるショーン・コックスが2018年にリバプールで行われたローマのチャンピオンズリーグ準決勝の前に昏睡状態に陥ったとき、彼らはまったく間違った理由で注目を浴びた。

ショーン・コックスを襲った2人の男は20代だった。2人のうち年上のシモーネ・マストレッリは後に有罪を認め、2020年2月初旬に懲役3年6ヶ月の判決を受けた。フェダインはこの判決に対して「恐怖は一緒に立ち向かえば打ち消される。私たちの希望はついに現実になる。おかえりなさい」と書かれた横断幕を掲げて反応した。フェダインの歴史とアウェー戦での献身的な存在は、彼らをイタリアで最も悪名高いウルトラスグループの1つにしている。


ヴェネト州はローマの北東から半日の距離にあり、エラス・ヴェローナの本拠地だ。今日に至るまで、この地域には、近隣の地域にさえ不信感を抱く極右の政治基盤が数多く存在する。カンパニーリズモ、つまり地元愛国心がこの地域では強く根付いており、中世に丘の上の町が海賊や盗賊を撃退していた時代から、よそ者に対する疑念や不安が文化として表出している。

鉄のカーテンが敷かれた時代、イタリア沿岸部では東ヨーロッパやアフリカから政情不安を避けるために流れ着いた移民が多く押し寄せたが、彼らは主に長時間労働・低賃金の肉体労働の職に就くことが多く、社会的に確固とした経済基盤を持つ者は少数であった。

特にヴェネト州は、その孤立主義と都市や町内での激しい地域アイデンティティで知られている。ヴェネト州が国の税収の大部分を占めていることもあって、この地域の一部では、国の他の地域から離脱しようとする動きが長年続いている。最大のチームであるエラス・ヴェローナは、常に極右に傾倒した政治基盤を持っており、鉛の時代に誕生したグループは街の労働者階級の精神を代表していたため、すぐに多くの支持者を獲得していった。頭蓋骨、ケルト十字、その他の右翼の記章が、クルヴァでよく見られた。

他のファンとの衝突や警察に対する暴動は日常茶飯事で、対戦相手の選手に対する差別や人種差別も日常茶飯事だった。例えば1982年、カリアリのペルー人フォワード、フリオ・セサル・ウリベはベンテゴディでプレー中にバナナを投げつけられた。

時が経っても、同様の醜い現象は依然として続いている。ヴェローナのウルトラスは、母国で定期的に差別を受けているマリオ・バロテッリ選手を人種差別的に罵倒して2020年をスタートさせた。ヴェローナのウルトラス首領であり、極右政党フォルツァ・ヌオーヴァのメンバーであるルカ・カステリーニは、エラスとブレシアの試合でストライカーのマリオ・バロテッリが猿のチャントでやじられた後、同選手に対して人種差別的な主張をした。カステリーニは地方のラジオ局に出演し、次のように宣言した。

「バロテッリはイタリア国籍を持っているのでイタリア人だが、完全にイタリア人になることはできない。我々のチームには昨日得点した黒人選手もいるが、ヴェローナのファン全員が彼に拍手喝采した」

カステリーニは過去に「ルドルフ・ヘス(ヒトラーの副官)が我々を訓練してくれていたらどんなに良かっただろう」「ヒトラーが犯した罪は民主主義の犯罪よりも健全」とも発言したと伝えられている。

その後、彼は2030年までイタリアのスタジアムへの入場を禁止された。その数週間後、ヒトラーとその下に「ヴェローナ」の似顔絵がプリントされた帽子を持ち込もうとした8人のグループがスタジアムへの入場を禁止された。彼らの年齢は21歳から49歳までで、新世代の極右勢力が健在であることを示している。


「夜の外側」の劇中、コロッセオ近くの路上で数名の共産党員の若者たちが「ロマニスタのくせにユヴェントスを応援するなんて」とたわいもないカルチョ談義に花を咲かせるシーンがある。車内で共産党党首エンリコ・ベルリンゲーと次の組閣に関する密談中だったアルド・モーロは微笑ましくその話を聞いている。しかし、彼は知らなかったのだろうか。この時代、すでにカルチョには深く政治が入り込んでいたことを。

340分の怪物的作品の終幕後、呆然とした気持ちで渋谷の映画館を後にした私はそのことがずっと頭から離れなかった。時代の趨勢を知らず、ルノーのボンネットでその生涯を終えた彼のことが。

(校了)

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