とあるフットボーラーの肖像 - エバートン伝説の男 ディクシー・ディーンの60ゴール



DIXIE'S SIXTY: 85 YEARS ON


グディソンパークに行ったことがある人なら、誰でも一度は見かけたことがあると思います。
スタンリー・パークを抜け、道路を渡りエバートンのファングッズショップの前を通り、スタジアムへたどり着くと、そこには一人のフットボーラーの銅像があります。

↓こんな感じ。













































今日は、彼のお話。


◇◇◇



知っているだろうか?1927-28年シーズンに前人未到の60ゴールを達成した、とあるエバトニアンの話を。
今年は彼の生誕105年目の節目の年で、思い出すのにちょうどいい機会だと考えている。

名前は、ディクシー・ディーン。

悲しいことに、現代では大半のフットボーラーやフットボールファンが彼の名前を知らない。
プレミアリーグの世代のファンは過去を知らない。ビデオも、今では残されてはいない。

◇◇◇

彼は自分がまだ若かった頃から、フットボールに身を捧げることを望んだ。
フットボールの施設が充実しているからという理由で11歳から少年院にある学校に通い、3年間夜の仕事をした。
その間、彼は数多くのフットボールの試合に出場することが出来た。

その後ディーンは、ウィラル鉄道に就職し、フットボールを続けた。
ある時彼は、自分の磨き上げられた技術の一端を見せたことがあった。
なんと不法侵入してきたネズミを、壁の向こう側まで蹴りあげたのだ。
この逸話は、彼のショットの強さの最初の証拠となった。

軽々と点を取る10代のディーンを、フットボールクラブが放っておくはずがなかった。
様々なところから声がかかったが、1923年に16歳の若さでトランメア・ローヴァーズへ加入した。
彼はトランメアでの2年間、30試合に出場して27ゴールを上げた。より大きなクラブのスカウトが、トランメアのホームであるプレントン・パークに足を運んだ。
アーセナル、ニューカッスル…。

しかし、生粋のエバトニアンであったディーンは、結局、愛するブルーズへ移籍することを決めたのだった。

ディーンは願いを叶えた。
エバートンが支払った3,000ポンドと言う額は、その当時トランメアが受け取った史上最高の移籍金であったが、ディーンは間違いなくそれに値した。
彼はエバートン在籍中に通算395ゴールを上げた。
エバートンがディーンに支払った額は、1ゴールにつき7.8ポンドというバーゲン価格だった。

グディソンでの最初の7試合で2ゴールと出だしこそ控えめだったものの、ディーンは翌年、翌々年にはともに30ゴールを上げ、直ぐに疑いを吹き飛ばした。
その記録はティーンエイジャーとして全く信じられないものだったが、ディーンはやがて永遠に歴史に名を刻むシーズンを迎えようとしていた。

◇◇◇

そのシーズンの開幕戦、ゴールを上げて4-0でシェフィールド・ユナイテッドを下すと、ディーンは9試合連続で得点を重ねた。
その中には、彼自身が全得点を叩きだして5-2でマンチェスター・ユナイテッドを下した10月の試合も含まれている。

シーズン中の大半は同じ調子で過ごしたが、ミドルスブラのジョージ・カムセル(※1)が前シーズンに記録した59ゴールをディーンが塗り替えるのは難しいように思われた。
3月は彼の水準から行くと低調だった。怪我のために2試合欠場し、2ゴールしか上げることが出来なかった。
カムセルの記録が高い壁として立ちはだかる。

残りのリーグ戦7試合で、ディーンは15ゴールを上げる必要があった。1試合平均2.1ゴールである。
その後ブラックバーン、シェフィールド・ユナイテッド、アストンヴィラ相手に2得点を上げたが、目標まではまだ7ゴール届かない。
気づけば、リーグ戦も残り2試合になっていた。

◇◇◇

おそらく、ここからが彼の異常な伝説の中でも最も信じがたい挿話になるだろう。
ディーンは次のバーンリー戦、ターフ・ムーアで4ゴールを上げたが、後半に怪我をしてしまう。
彼は後にこう回想する。

「老ハリー・クック(エバートンのトレーナー)は明らかに狼狽えていたよ。もちろん私もね」

歴史を塗り替えるまで、あと1度のハットトリックが必要だった。
クックはディーンを何とか最後のアーセナル戦へ出場させるため、必死の抵抗を試みる。
試合前の3日間、彼はディーンのベッドの横で寝ながら、2時間に1度は軟膏薬を塗った。

その効果は表れた。
後にディーンはクックのことを「ワンダフル・マン」と語った。
怪我が癒えた後、彼に残された仕事はあと3度ネットを揺らすことだけだった。
相手はハーバート・チャップマン(※2)率いるアーセナル。難敵である。

◇◇◇

しかしながら、ディーンは最初の6分間で2ゴールを上げ、59ゴールに並んだ。彼もチームメートも、安堵した。

フットボールは何が起こるかわからない。
アーセナルは守備ラインを引き、タイトに守り通した。気づけば2ゴール目から76分が過ぎていた。
時計の針は刻一刻と進んでいく。

試合終了8分前、エバートンのアレク・トゥループがいつもの角度でディーンにクロスを上げた。
彼はこのシーズン、ディーンのゴールの半分をお膳立てしていた。
明らかに歴史を作った人物であるが、彼の言葉を借りると「ただ蹴ってボールを入れた。それだけさ」となる。

予想した通り、グディソンの観客は荒ぶりながら嵐のようにピッチに雪崩れ込んだ。
ディーンの頭にボールが触れ、ボールはネットを揺らした。
彼はこの時のことを、後にユーモアを混じえてこう語る。

「観客がピッチを侵略してきて、私の顔にはあごひげが生えた。スコットランド・ロード(リバプール市内、エバートン地区の通りの名前。低所得労働者たちの住宅街)の男たちは私を取り囲み、顔を擦りつけてきたんだ。彼らはその日、ひげを剃ってなかったのさ」

◇◇◇

ディクシー・ディーンがリーグ戦39試合で達成した60ゴールは、未だ破られる気配がない。
最もこの記録に近づいたのは、この3年後に49ゴールを上げたアストンヴィラのトム・ウォーリング(※3)だった。
最近では、アーセナルのロビン・ファン・ペルシが30ゴールを上げ「奇跡の男」などと呼ばれたが、彼の記録はディーンの半分にしか満たない。

このグディソンのゴールスコアラーが当時20歳であったことも、記録をより印象的なものにしている。
現代の選手と比べると、マンチェスター・ユナイテッドのダニー・ウェルベックはこのシーズンのディーンより1歳年上だが、通算18ゴールしか上げていない。

◇◇◇

必然的に、ディーンがこの記録を達成することは二度となかった。怪我の影響を受けたのだ。
とは言え、彼はこの後5シーズン連続で20ゴールを上げており、中でも1931-32年シーズンには45ゴールを達成した。
30歳の時、クラブはトミー・ロートン(ディーンが手ほどきした17歳の若手選手だった)(※4)ら新しい選手と契約を結び、ディーンはノッツ・カウンティへ去った。

彼のノッツ・カウンティでの日々は短かった。
1シーズンを過ごした後、スリゴ・ローヴァーズ(※5)へ移籍し、その後ハーストFC(※6)で引退した。第二次世界大戦勃発の影響だった。

引退後、謙虚で実直な性格だったディーンは、チェスター市内でダブリン・パケット・パブという店を経営しながらリトルウッズ・フットボール・プール(有名なフットボール賭博場)でポーターとして働いた。
「俺は有名なんだ、知ってるだろ!」という性格とは真反対の人間だった彼は、一般職の同僚からは「物静かで謙虚な人間だった」と評されており、裏方仕事を誇りにしていたという。
例えば現代に於いて、クリスティアーノ・ロナウドやウェイン・ルーニー、リオネル・メッシらが引退後、無名の一般人に戻り、地元のガレージや工場で働くようなことが有り得るだろうか?

◇◇◇

彼は明らかな才能を持っていたにもかかわらず、イングランド代表としては16試合しかプレーしなかった。
5年間16試合で18ゴールを決めたと聞いても、何ら驚きはないだろう。

当時のFAは積極的に海外へ遠征して国際試合をしたがらなかったこともあり、彼の代表招集の機会は奪われたが、呼ばれた時には積極的に参加した。幾つか注目すべき記録も残している。
例えば1927年にアントワープで行われたベルギーとの親善試合、試合開始10分でゴールキーパーへ危険なタックルを犯して10分間退場の処分を受けた(ラグビーで言うところのシンビン)。
恐らく、イングランド代表史上でシンビン処分を受けたのは彼が最初で最後であろう。
また、ベルギーやルクセンブルク相手にハットトリックを達成している。
彼が代表として記録した最後から2番目のゴールは、グディソンパークでアイルランドを相手にした時のものだった。

◇◇◇

ディーンは現代とは違うフットボールの時代に君臨した、王だった。
ゴールキーパーはハンチング帽を被り、ディフェンダーは「ウォーニー・アンド・ウィリー」と呼ばれ、相手選手からの侮辱は、現代と比べれば奇妙に紳士的だった。
あるロッチデールとの試合で、ディフェンダーから掛けられた「もう血なまぐさいことは止めよう」という言葉を記憶している。

侮辱がより攻撃的になった時には、彼は直ぐにそれを止めに入った。
彼の黒い肌を揶揄する観客に向かってゆっくりと歩いて行き、顔面に鉄拳を見舞った。
直ぐに警察官が飛んできたが、彼らはディーンを取り押さえるようなことはせず、握手を求めた。

彼は、最も多かった時でエバートンから週にたった8ポンドしか受け取っていなかった。
1970年台には、インタビューでこう語っている。

「現代のフットボーラーは、週に100ポンド以上もらっているが、その反面ファンは立って試合を観戦するのに30ペンスを支払っている。我々は今 行われているフットボールより、もっと多くのエンターテインメントを期待しているのだ。現代のフットボールで起きることの幾つかを考えると、私は泣きたく なるよ」

もしディーンが現代に生きており、週給100,000ポンド以上もらっている選手のことを知れば、どう考えるだろうか。
ディーンがエバートンに在籍した12年間で稼いだ12倍もの金額を、彼らは毎週得ているのだ。
彼の娘のバーバラさんは、2007年のインタビューの中で「もし生きていれば、おとぎ話の出来事だと思うでしょうね!父は『彼らはカーペットのスリッパとビーチボールで遊んでいる』と常々語っていました」と話している。

◇◇◇

ディーンの達成した偉業は長い間、不可解なことにエバートンから無視されてきた。クラブは、彼の達成した60ゴールに対してどんな形にせよ、報いることをしなかった。
エバートンがこの記録に気づいたのは、ディーンの死後のことであった。
訳註:この記述は事実に反しているかもしれない。少なくとも、1964年にはディーンのためのテスティモニアル・マッチがグディソンパークで開催されている。

ディーンが持っていた膨大なメダルは、1980年彼が亡くなった後にオークションにかけられ、グディソンパークとエバートン会長のビル・ケンライトに18,212ポンドをもたらした。
同年、グディソンパークのパークエンド入口付近に、彼の築いた歴史を表彰する銅像が立てられた。

<校了>

◇補足◇

本記事では触れられていませんが、ディーンはエバートン在籍中に大きな怪我をしています。

詳しくは日本語Wikipediaにも記載されています。

そのバイク事故は、1926年6月に起こります。
36時間の意識不明という生死の淵を彷徨い、結局は頭蓋骨と顎の骨折という重傷を負ってしまいます。
当時の主治医であったジェイムズ・バクスター医師は、もう二度とフットボールをプレーできないと思ったそうです。

ですが、なぜか事故後15週間で復活し、リザーブのハダースフィールド戦に出場。
シーズンの途中には完全復帰して21ゴールを上げます。
その翌年に偉大な記録を達成することになるのですから、本当にフットボールは何が起こるかわかりません。

また、彼の事故が起こった結果、フットボーラーの契約書に「重大事故の場合」という項目が追加されるようになったとも言われています。

また、本文中にもありましたが、60ゴールを達成した次の2シーズンは怪我に苦しみ、結果エバートンは降格。
彼が45ゴールを上げたシーズンは、実は2部で過ごしたものでした。
その結果、エバートンは1シーズンでトップリーグに戻って来ました。

ディーンをノッツ・カウンティに追い出したテオ・ケリーという監督は、ディーンを監督の有力候補で自分のライバルだと危険視していたそうです。
そのため、無理にでも若手を補強したのです。
ディーンは、その実直な人柄ゆえ、クラブ内での政治抗争に巻き込まれてしまいました。

リバプールの偉大な監督でディーンの友人でもあった、ビル・シャンクリーは、彼についてこう語っています。

曰く、「史上最高のセンター・フォワードだ」と。

ライバルチームで、さらにリバプールの黄金期を率いたシャンクリーにそう言わしめてしまうところに、ディーンの凄まじさがあると私は思います。

--

訳註

※1 ジョージ・カムセル(Wikipediaより)

1925年から1939年の間ミドルスブラに在籍し、419試合で325ゴールを上げた名ストライカー。
イングランド代表としても9試合に出場し、9試合連続で合計18ゴールを上げている。
この記録は、単一の代表選手としての「1試合平均ゴール数」で史上最高である。

※2 ハーバート・チャップマン(Wikipediaより)

20世紀前半を代表する名将。
1925年からアーセナルを率い、3-2-2-3(WMシステム)を開発して全世界に影響を与えた。

※3 トム・ウォーリング(Wikipediaより)

アストンヴィラのレジェンド。
1928年から1935年の間在籍し、216試合で159ゴール、10度のハットトリック、そして前述の49ゴール(クラブレコード)を記録。
彼の遺灰は、ヴィラパークのホルト・エンドに散骨された。
「ポンゴ」のあだ名で知られている。

※4 トミー・ロートン(Wikipediaより)

エバートンには1936年から1939年の間在籍し、87試合出場65得点を上げた。
その後もチェルシー(42試合30得点)、ノッツカウンティ(151試合90得点)、アーセナル(35試合13得点)を渡り歩いた。戦後までプレーを続けた名ストライカー。
イングランド代表としても46試合で46ゴールを記録。

※5 スリゴ・ローヴァーズ(Wikipediaより)

アイルランドのフットボールクラブ。1928年設立、1934年にリーグ参加。
1939年1月に鳴り物入りでビッグネームのディクシー・ディーンを獲得した。
このシーズン、ディーンはリーグ戦7試合で9ゴールを上げており、1試合5得点もマークした。
また、カップ戦決勝でもシェルボーン相手に1得点を上げたが、試合は1-1のドローで再試合となり、結果準優勝に終わる。
この時にディーンが得た準優勝のメダルは試合後に何者かによって盗まれたが、彼がイングランドに戻った7年後に返却されたという。

※6 ハーストFC(Wikipediaより)

アシュトン・ユナイテッドFCは英国マンチェスターのアシュトン・アンダーラインに本拠地を構えるフットボールクラブで、現在は7部のノースプレミアリーグ、プレミアディビジョンに所属。
設立当初はハーストFCで、1947年にクラブ名が変わる。
1940年にディーンを獲得するも、第二次世界大戦勃発の影響でほとんどプレーできなかった。

コメント