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BREITNER: REBEL WITHOUT A CAUSE
「俺が16歳の時、チェ・ゲバラが死んだ。強い衝撃を受けたね。あれが俺の成長における、とても重要なステージだった」
「俺が一番に称賛するフットボーラーを聞きたいのかい?マオ(毛沢東)さ。何を読んでいるか?俺の最大の願望?ベトナムでアメ公が負けることさ」
ニューヨーク・タイムズ紙は70年代初め、彼をこのように賞賛した。
「ドイツ・カウンターカルチャーにおける最も新しいヒーロー」
今日は、そんな彼の話。
「俺は疑問を持つように教育されたんだ」
「キャリアを始めた1970年には、フットボーラーはみんな監督やコーチから言われたことをやらなきゃならなかった。誰も『なぜだ?』とか『お断りだね』とは言わなかったね。それはクラブや周囲の人々、メディアにとっては衝撃的なことだった。」
「俺というキャラクターのイメージはその辺から始まってるんだが、俺はドイツ68年組(参考:German student movement)の一人なんだ。当時の学生には革命精神があった。だから俺は、マオやチェ・ゲバラの考えに興味を持つようになったんだ」
彼は回りの人間に、国際試合の前に国歌を聞いていることは「退屈」で「集中を破壊する」と語った。
敵チームのファンは、口角を泡立たせながら彼らが考えうる最低の侮蔑を彼に与えた。
「マオイスト!コミュニスト!!」
しかし、彼らは気づいていなかったかもしれない。彼らが補足物と見なされていたことを。
彼は口ひげ、あごひげを伸ばし、アフロヘアーでレーニンやマルクスを読んだ。
児童福祉活動を行い、フットボールの国際舞台を「空港、ホテル、空港」と表現した。
軍から召集令状を受け取ったこともあった。
反戦運動を行っていた68年世代以降の学生たちからは、軍の招集を回避したヒーローとしても知られている。
「午前2時だった。武装警察がドアベルを鳴らしたんだ。」
「(チームメイトが無視している間に)俺は地下の石炭室へ駆け込み、隠れてやりすごしたんだ。それが何日間か続いた。最終的には奴らが俺の指名手配書を貼りだして、俺は街を歩いている時に逮捕された。それで兵舎に連れて行かれたんだ」
彼はその後3ヶ月間、彼の同僚がブンデスリーガでプレーしている間、兵舎のトイレ清掃係として過ごした。
◇◇◇
ブライトナーは傲慢だった。
最も有名なのは(あるいは不名誉か?)フォトグラファーに自分の写真を撮る時に依頼した出来事だ。
彼は毛沢東の大きな肖像画の下に座って、もたれかかった。
手には、中国共産党の機関紙。
更に、彼の横には犬が一匹いた。ボクサー犬だった(訳注:毛沢東は犬の飼育をブルジョワの趣味として禁止した)
衝撃的な写真だ。
「キャリアを始めた1970年には、フットボーラーはみんな監督やコーチから言われたことをやらなきゃならなかった。誰も『なぜだ?』とか『お断りだね』とは言わなかったね。それはクラブや周囲の人々、メディアにとっては衝撃的なことだった。」
「俺というキャラクターのイメージはその辺から始まってるんだが、俺はドイツ68年組(参考:German student movement)の一人なんだ。当時の学生には革命精神があった。だから俺は、マオやチェ・ゲバラの考えに興味を持つようになったんだ」
彼は回りの人間に、国際試合の前に国歌を聞いていることは「退屈」で「集中を破壊する」と語った。
敵チームのファンは、口角を泡立たせながら彼らが考えうる最低の侮蔑を彼に与えた。
「マオイスト!コミュニスト!!」
しかし、彼らは気づいていなかったかもしれない。彼らが補足物と見なされていたことを。
彼は口ひげ、あごひげを伸ばし、アフロヘアーでレーニンやマルクスを読んだ。
児童福祉活動を行い、フットボールの国際舞台を「空港、ホテル、空港」と表現した。
軍から召集令状を受け取ったこともあった。
反戦運動を行っていた68年世代以降の学生たちからは、軍の招集を回避したヒーローとしても知られている。
「午前2時だった。武装警察がドアベルを鳴らしたんだ。」
「(チームメイトが無視している間に)俺は地下の石炭室へ駆け込み、隠れてやりすごしたんだ。それが何日間か続いた。最終的には奴らが俺の指名手配書を貼りだして、俺は街を歩いている時に逮捕された。それで兵舎に連れて行かれたんだ」
彼はその後3ヶ月間、彼の同僚がブンデスリーガでプレーしている間、兵舎のトイレ清掃係として過ごした。
◇◇◇
ブライトナーは傲慢だった。
最も有名なのは(あるいは不名誉か?)フォトグラファーに自分の写真を撮る時に依頼した出来事だ。
彼は毛沢東の大きな肖像画の下に座って、もたれかかった。
手には、中国共産党の機関紙。
更に、彼の横には犬が一匹いた。ボクサー犬だった(訳注:毛沢東は犬の飼育をブルジョワの趣味として禁止した)
衝撃的な写真だ。
◇◇◇
この男は、バイエルン・ミュンヘンとレアルマドリーでプレーし、ワールドカップ決勝戦(1974年、西ドイツvsオランダ)でPKを決めるという胆力を見せたこともあった。
そして、2度のワールドカップ決勝でゴールを決めたことのある、たった4人の選手の1人でもある。
ブンデスリーガでは285試合に出場し、93ゴールを記録。西ドイツ代表では48試合に出場し10ゴールを決めた。
ヨーロピアンカップを獲得、5度のブンデスリーガ優勝、2度のラ・リーガ優勝を経験している。
また、「ドイツ代表にとって史上最高の試合」と未だに称される72年のウェンブリーでもプレーし、英国人からギュンター・ネッツァーとともに賞賛された。
彼のフットボールキャリアは、様々なレベルにおいて成功とともに記される。
◇◇◇
世界は彼を「理由ある反逆者」「レッド」パウル・ブライトナーとして記憶している。
そのように、神話は語られる。
ルートヴィヒ1世は19世紀のバヴァリア地方の統治者だった。
彼の古代ギリシアへの情熱のお陰で、ドイツ語の「バヴァリア」という地名は現在でも「バイエルン」と綴られている。
ルートヴィヒ1世は独断的で、常軌を逸しており、エゴイスティックで自分を演じることを愛した人物として知られる。
また、進めていたことを突然、今までまるで興味が無かったかのように中断するような人物として激しく非難されることもある。
この型破りの指導者と鏡写しのイメージが、ベルリンの壁建造後すぐにバヴァリアで生まれた「レッド」パウル・ブライトナーにも用いられる。
象徴性はいたるところにある。隠喩的にも、実際的にも。
◇◇◇
ストライカーとしてプロのキャリアを始めた後、彼は左サイドにコンバートされた。
永遠に攻撃し続ける、攻撃的な左サイドバックとなった。
「最も重要な事は、多くのアイディアでプレーすることなんだ」と彼は明かす。
◇◇◇
バイエルンでキャリアの地歩を築いたブライトナーは次のように語っている。
「ほとんどすべてのものが金の回りを循環している。社会主義の入り込む余地がない」
また1974年、バイエルンがアトレティコ・マドリーとのヨーロピアンカップ決勝のリプレイに4-0で敗れた後、次のようにもコメントしている。
「金はそれ自体が終わりを意味している」
ドイツで行われた1974年ワールドカップの開始時、代表チームはブライトナーを失う寸前で、もし彼が居なければ敗退していただろう。
きらびやかなオランダ代表が、自国代表よりも多くの勝利ボーナスを与えているという事実に不満を持ったブライトナーはすでにバッグに荷物をまとめており、もしドイツ代表が莫大な優勝ボーナスを各選手へ与えることを決定していなければ、チームから去ろうとしていたのだ。
彼は後にこう語っている。
「俺は勝つために代表にいた。他のことは気にしてなかった」
このセリフを彼に言わせたのは、革命精神か、それとも自身の自己弁護だったのだろうか?
◇◇◇
ブライトナーはまた、レアルマドリーでプレーしたいという願望によっても周囲の人間を驚かせた。当時のレアルは、まだ存命中だった独裁者フランコのチームだった。
スペインは、共和国軍が虐殺され、共産党と国際旅団がスペイン内戦に敗北した1939年から、極右政権が牛耳っていた。
スペインのカップ戦は、彼が移籍した当時は「ヘネラリッシモ・カップ」(総統カップ)と呼ばれ、フランコの死後「コパ・デル・レイ」と呼ばれるようになった。
彼はスペイン在籍時に自分のスポーツカーの持ち込みが許されなかった事が「個人的に最も悲しかった」と後に語っている。
そこに、果たして理想や政治思想はあるだろうか?
◇◇◇
1976年、彼は「ポテト・フリッツ」という名前の忌まわしく下らないウェスタン映画に出演した。
ひょっこり金泥棒に出会うドイツ人の役だった。
この時の演技のコンセプトは、彼がバイエルンからレアル・マドリーへ移籍した時に感じた感情を用いたものだったかもしれない。
500,000ポンド(3,000,000ドイツマルク)の移籍金が動いたその時の移籍について、後にプレイボーイ・マガジンで次のように語っている。
「(移籍金の一部が選手に入ってこないことについて)移籍金ビジネスは非合法だ。人権と基本的な人間の尊厳に反している」
◇◇◇
純粋にマルクス主義を信奉している人間にとっては、ブライトナーの喋り方がマルクス主義者であると考えるのは難しい。
彼の言動は、彼がピッチ上で犯すいかなるファウルよりも破壊的だ。
彼は、富が政治信条よりも重要であるかのように行動する。
彼は、社会主義者が最も憎む生物、資本主義者のように振る舞う。
「もし誰かが俺のところに来て、あごひげを切ることを条件に含んだ契約を持ってきたら、きっとそうするだろう。あごひげは俺にとって大して重要 じゃないんだ。俺の奥さんがあごひげが好きだって言うんで、生やしているだけさ」(彼は以前のインタビューで、「あごひげを生やすことで自分の左翼的な政 治信条を表している」と語ったことがある)
「もし必要なら、ケツでも売りに出すさ」と語ったこともある。
1977年にはタバコ企業が彼のスポンサーになり、マセラッティをミュンヘンで乗り回していた。
ついに1982年のワールドカップ開始前、香水のCMに出演するために、150,000ドイツマルクを受け取ってあごひげを剃り落とした。
彼は言う。
「誰も俺を知らない。誰も俺をジャッジできない」
◇◇◇
ブライトナーは、1977年の夏に突如アイントラハト・ブラウンシュヴァイクへ戻った。
アイントラハト・ブラウンシュヴァイクはマースト・イェーガーマイスター社(訳注:リキュール製造会社)で巨額の富を築いたギュンター・マーストが保持しており、ドイツ国内でブライトナーの甚大な契約金を支払えるのは彼らしかいなかった。
バヴァリアの小さな町、コルベルムーア出身の左サイドバックは、残りのシーズンをメディアやチームメイト、ファンと論争を巻き起こしながら過ごした。
ブラウンシュヴァイクの「素人くさい態度」に不満を漏らし、クラブの三流精神を「村人が馬糞についてぺちゃくちゃまくし立てている村の店のよう」と猛烈に批判した。
キャリアの終わりには、ブライトナーはもはや「レッド」パウルではなかった。
ルートヴィヒ1世の様に道化芝居をするだけの、上辺だけの退屈さを取り繕って信念を捨てた男だった。
「反逆者とは、全てをそのまま受け入れないってことだ」とブライトナーは吠える。
ベッケンバウアーが西ドイツ代表の監督だった時、「フットボールの墓掘り人」と呼んだ。全てに対して怒りをぶつけた。低調な代表のパフォーマンス、馬鹿げた金額が動くプレミアリーグ。
彼はまた、史上最短でドイツ代表監督を解任された記録も持っている。在任期間は17時間だった。
代表監督に収まるには、権力の回廊にあまりにも多くの敵を持ちすぎていた。体制への反抗は栄誉の証のはずだが、代表監督に悪事は不要だった。
だが、「レッド」パウルは共産主義者やマルキスト、社会主義者、マオイストの間に多くのサポーターを持っていたわけではない。
彼のモラルと政治スタンスは曖昧だった。
唯一貫き通したのは、喧嘩っ早く金に夢中だった姿勢だけだ。
◇◇◇
バイエルン・ミュンヘンは、ブライトナーを役員のアドバイザーとして迎えた。
1968年に政治活動を行った学生は、彼らが40年前に攻撃したはずの主流派によってずっと昔に忘れさられてしまった。
アメリカはベトナムで負け、ベルリンの壁は壊れ、ソヴィエト連邦は解体し、社会主義は危機を迎え、毛主席はとっくに死んだ。
そして、ブライトナーは金持ちになった。
彼はunaufrichtig(偽善的)、あるいはechte(純粋)な左翼主義者だったか?
実利主義は全てを負かせた様に見える。
ある男はこう語った。
「当時の学生には革命精神が宿っていて、俺は彼らの一部だと感じたんだ」
「そして、だから俺はマオやチェ・ゲバラの考えに興味を持ったんだ。だけど俺はマオイストや共産主義者ではない。若い男として興味を持たなければ ならなかったんだ。学ぶこと、ミスを犯すこと、そしてより良い行動をすること。だけど、俺は自分のしてきたことに幸せだ。若い時に『お断りだね』とか『な ぜだ?』と言わなくて、いつ言うんだ?今俺は63歳だが、今までの行い以上にこれからの行いには責任がある」
この男は、独白の終わりにこう結んだ。
「俺は過去の過ちを認め」
「心変わりを当然の事と思うだけのただの人間さ」
◇◇◇
70年代に、同じくドイツでアイコン的存在だったクラフトワークの「Spiegelsaal」という楽曲に、次のような一節がある。
Er schuf die Person die er sein wollte/ Und wechselte in eine neue Persönlichkeit
彼は彼の望むように人格を作り上げ / 新たな人格へと変身する
(校了)
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