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ユーラシア・ステップは緩やかに青の弧を描くドニエストル川によってその広がりを中断され、川の向こう側にはモルドバ平原が西に広がっている。2つの世界が、古臭く忘れ去られたヨーロッパの片隅で、地質学的な共生関係を結んでいる。
しかしながらこの質素な光景が表すのは、その存在から連想されるような関係の小休止などではなく、悲嘆に暮れた並列関係である。それは架空だが挑発的な欺瞞である。
2つの世界、2つの川の畔には、手に負えない並行した現実たちが存在する。両地域のイデオロギーによる分断は、まるで黒海に注ぐ川の水のように広がっているのかもしれない。
◇◇◇
実際の所、ルーマニア語を第一言語とするモルドバが統制しているのは西側のみであり、東側はロシア人が多く沿ドニエストル共和国政府が支配している。
モルドバという国家の歴史は奇妙なものだ。
ソ連崩壊後、モルドバの国家主義運動がモルダビア・ソビエト社会主義共和国内に蔓延し、ベッサラビアとトランスニストリアを覆い尽くした。モルダビア・ソビエト政府のロシア人達は糾弾され、ロシア語が第一言語の地位を剥奪されてルーマニア語が取って代わった。
スラブ人たちはドニエストルの東側へと避難し、沿ドニエストル共和国として1990年にモルドバからの独立を宣言した。
独立宣言により沿ドニエストル政府とモルドバ共和国との間に緊張が走り、1992年にはトランスニストリア戦争が勃発した。
4ヶ月半の戦いの後、両国はロシア介入のもと休戦協定を締結。民間人を多く巻き込んだ悲惨な戦闘だったが、最終的にはロシアの支援を受けた沿ドニエストル共和国の勝利となった。
それから20年余の間、正式な終戦には至っておらず、国際的な承認を無視して沿ドニエストル共和国がドニエストル側東沿を実効支配している。
◇◇◇
古びた橋を、あるバスが走っている。
ドニエストル川の東から西へと架かる橋、それは20年前に破壊され、現在では沿ドニエストル共和国の首都・チラスポリとモルドバの首都・キシナウをつなぐ一本の細い糸だ。
川の両岸にはチェックポイントが設けられ、監視隊が行き交うバスの通行証明を確認する。
車体側面に描かれたシンボルマーク(沿ドニエストル共和国を意味する星の上にサッカーボールが描かれたものだ)を見ると、東側の監視員は笑みをたたえ、バスを見送る。西側では、監視員は冷酷な目でそれを見つめている。
すなわち、それはFCシェリフ・チラスポリのシンボルマークなのだった。
シェリフ・チラスポリはモルドバリーグの王者として君臨している。
未承認国家の首都を本拠地としているチームの状況から考えると、まるで正反対の栄光だ。
それはまるで起こり難い現実で、例えばアブハジア共和国のフットボールクラブがジョージアリーグを制圧したり、台北市の大同足球隊が中国スーパーリーグで優勝するようなものではないだろうか。
しかしながらこの非現実的な状況が現実に起こっており、モルドバの国家主義者達は臍を噛んでいるだろう。FCシェリフ・チラスポリは、過去16シーズン中14度に渡り、優勝を勝ち取ってモルドバリーグを席巻しているのだから。
◇◇◇
FCシェリフ・チラスポリは、1997年に沿ドニエストルの企業であるシェリフによって設立されたものだ。この栄誉あるフットボールクラブは、未承認国家という薄暗い背景を持つ地域の住民たちにとって文化的な中心として機能している。
シェリフという地元企業は元KGB工作員だったヴィクトル・グシャンとイーリャ・カズマリによって創設されたものだが、沿ドニエストル共和国内に於いて多くの産業に於いて専売権を所有しており、ガススタンドやスーパーマーケット、テレビチャンネル、不動産、建設、メルセデス・ベンツのディーラー、広告、酒造、携帯電話などを手がけている。
シェリフはFCシェリフ・チラスポリというフットボールクラブを、彼らの違法取引や敵対派閥買収の汚名を覆い隠す為に利用している。
沿ドニエストル共和国という経済的暗黒地帯では企業による違法取引が横行している。
国外への取引の際は必ずモルドバ関税当局を経由しなければならないが、この地域は国内的にも国際的にも汚名で満ち溢れており、地元企業のシェリフはその中でも中心的な存在だ。
しかしながら、ビジネス上でのシェリフの汚名にもかかわらず、彼らは評価の高いフットボールクラブを保有している。
企業からの支援を受け、FCシェリフ・チラスポリの持つ設備は東欧諸国のクラブというよりイングランドのように充実している。
シェリフ・スタジアムは沿ドニエストル共和国の中でも人気スポットの一つで、素晴らしい芝が敷かれたグラウンドとよく手入れされたトレーニング・ピッチ、そして5つ星ホテルが併設されている。
そのクオリティはモルドバ代表も時折国際試合で使用するほどだが、シェリフの選手がモルドバ代表としてピッチに立つことは殆ど無い。
シェリフはモルドバ国外からの選手補強を積極的に行っており、ブルキナファソ代表やブラジル人のジャーニーマン、スイスの元ユース代表選手などが含まれている。ある国のリーグで最も成功しているクラブが、地元のユース育成にそれほど力を入れていないというのは奇妙な事態ではある。
2016年10月のワールドカップ予選に招集された26人の選手の内4人が沿ドニエストル人で、そのうち1人だけがシェリフのユースチーム出身だった。
シェリフは殆どの試合をドニエストル川の西側で行っているが、彼らの試合によって2国間の緊張関係に雪解けが訪れるようなことは起こっていない。彼らの存在は、1914年のクリスマス休戦や1998年にワールドカップで行われたアメリカ対イランのように、フットボールによる政治的緊張緩和の好例とは言えない。
フットボールは、モルドバと沿ドニエストルにとって対話を続けるための道具ではあるが、それと同時に互いの違いについて思い知るリマインダーとしても機能している。
シェリフ・スタジアムではキシナウからやってきたクラブと対戦する際、ロシアを賞賛するチャントが荒々しく木霊し、モルドバ人の選手たちはシェリフのファンによって悪意を持って口撃される。
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シェリフのプレースタイルは時と場合によって大きく変化する。
モルドバ・リーグにおいて、彼らは攻撃的な選手4人を前線に配置した4-2-3-1のスタイルで相手を制圧する。2013年にクラブに加わったブラジル人ウィンガーのリカルジーニョが左から攻撃を仕掛け、中央の3人のためにチャンスを作り出す。彼のスタイルは2016年に獲得したボスニア代表ウィンガーのゾラン・クブルジッチとよく噛み合っている。
シェリフのスター選手はクロアチア人で守備的ミッドフィールダーのヨシプ・ブレゾヴェツだ。
彼が中盤にバランスを作り出す中心的な人物で、中盤の底から組み立てゴールにも絡んでくるランパード的な働きを行う。今季、彼は圧倒的な成績を残しており、開幕から最初の12試合で5ゴール・7アシストを決めている。
国内リーグでのプレーとは裏腹に、欧州の舞台ではより慎重な結果重視のアプローチを行っている。今年行われたチャンピオンズリーグ予備予選2回戦でイスラエルの強豪、ハポエル・ベエルシェバFCに破れはしたものの、シェリフの名は2013年にヨーロッパリーグのグループステージに出場して以来、大陸に知られるようになった。
13-14シーズン、シェリフはトッテナム・ホットスパーとアンジ・マハチカラ、トロムソとともにグループKに組み込まれた。
ノースロンドンの雄、トッテナム・ホットスパーとの対戦では、2-0、2-1と敗れはしたものの接戦を演じてみせた。特に、両試合とも70%近いポゼッションを相手に渡しながら守備面で堅牢さを保ち、すべての時間で常に危険な存在となった。
アンジとの対戦では2分、トロムソとの対戦では1勝1分で最終的には誇るべきグループ3位で終わり、試合内容は退屈だったにせよ、欧州での地位を強固なものとした。
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フットボールがブラックマーケットに満ちた沿ドニエストルの名声を高めた一方、分離地帯の悲しい現実も人々の記憶に留めている。
シェリフには、モルドバのフットボールの過酷な現状から切り離された将来への明確な可能性や栄光の気配がたしかに存在する。しかし、それは国家を神格化し民衆を抑制するものであって、決して民衆を鼓舞するものではない。
シェリフ・チラスポリは、親会社であるシェリフにとっての文化的な中心地であり、経済的強さや沿ドニエストルの特別性をモルドバに見せつけるための存在だ。また、それは慣行化された腐敗を覆い隠すための道具でもある。
企業としても、国家としても、彼らはモルドバに勝利したい。外国人だらけのチームを使って、白亜の殿堂たるシェリフ・スタジアムまで築き上げて。
沿ドニエストル・ルーブルがモルドバ・レイよりも優位に立っていることを見せつけ、ロシア資本を投下して多くのモルドバのクラブが貧困に喘いで草の根のクラブ作りをしているのを嘲笑いたいのだ。しかし、その栄光は空虚なものでもある。
シェリフのサポーターはモルドバ代表をコケにする。沿ドニエストル共和国出身のスーパースターが誕生していないにも関わらず、意味のない中傷を続ける。沿ドニエストル生まれの選手たちは、最終的にはモルドバ代表としてプレーするしかないのに。
彼らは成功に執着しているが、それは文化的な流動性や社会の団結を意味するものではない。
ドニエストル川東岸は、大草原と波打ち際が混じり合った捻れた世界である。草原は東へ広がり、
そこにはウクライナやロシアがある。沿ドニエストル共和国は彼らの丘の麓で西側から切り離され、未だ凍結された旧ソ連の時を生き、人々は古い約束や習慣に囚われている。
かつてソヴィエト体制下で栄えた2チーム、軍部が後ろ盾となったCDKAモスクワやKGBの恩恵を受けたディナモ・モスクワのように、シェリフ・チラスポリもまた国家の権力派閥と協力しあっている。
シェリフという企業は、今日では自由経済を隠れ蓑に専売権を保有し、沿ドニエストルにおける殆どのサービスを提供し、名前だけの政府を影から操る専制君主のような存在となった。
彼らの保有するフットボールクラブは外国人選手を引き連れてモルドバリーグを支配し、反モルドバへの情熱を滾らせ、感傷的な国家主義者や独立主義者に生気を与えてはいるが、それは決して何かを前進させるためのものではない。
◇◇◇
シェリフ・チラスポリは毎年のようにリーグ優勝を飾る。
21世紀に入って以降、彼らが栄冠を勝ち取れなかったのはたったの2度だけだ。
そしてそれは、これからも当分の間変わることは無いだろう。
21世紀に入って以降、彼らが栄冠を勝ち取れなかったのはたったの2度だけだ。
そしてそれは、これからも当分の間変わることは無いだろう。
しかしシェリフが新たなトロフィーをキャビネットに飾る時、彼らは毎年飲んでいる苦い薬を改めて飲むことになるはずだ。
トロフィーの中央に目を向ける。
そこに刻まれた「勝者」を意味する言葉は、ロシア語の"чемпион"ではなく、ルーマニア語の "Campioni" なのだから。
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