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バルカン半島広域に横たわるディナル・アルプス山脈より源を発し、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアを流れアドリア海へ注ぐネトレヴァ川。ちょうどその流路の途中、ボスニア・ヘルツェコビナ南西部に、モスタルという街は存在する。
モスタルはヘルツェゴビナ・ネトレヴァ県の首都で、ネトレヴァ川によって街を東西に隔てらている。都市名の由来は「モスタリ」(橋の番人)から取られ、さらに言えばモスタリとは「スタリ・モスト」(古い橋)の守護者である。
この高名なシングル・スパン・アーチは16世紀のオスマン帝国統治下に建造され、度々歴史の舞台に登場してきた。近年ではボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時にクロアチアの民族主義軍によって破壊されてしまうという悲劇を被っている。その事実は、この橋がいかにボスニアやトルコなどのイスラーム文化を象徴したか、の証左となるものであろう。
後にこの橋は全世界の助力を得て再建され、 ユネスコ世界遺産にも登録された。
その橋の存在も相まって、旧ユーゴスラビア内でも有数の景勝地であったことは議論の余地がない。
ネトレヴァ川を挟み、街の西岸にはクロアチア・カトリックのコミュニティ、東岸にはボスニア・ムスリム人コミュニティがそれぞれ形成されており、ボスニア・セルビア系の少数派が両岸でお互いの勢力の隙間を縫うようにひっそりと暮らしている。
北部より街を臨むのはヴェレス山脈で、この山脈の名はスラヴ神話のヴォーロスより来ている。そして、おなじ神の名を頂きに据えるフットボールクラブが、この街にはある。
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導入が長くなってしまいましたが、今回と次回の2回に分けて、瞬間的にユーゴスラヴィアで光を放った古いクラブの話をしようと思います。
日本人にも聞き馴染みのある名前がちらほらと・・・。
元ネタ:https://thesefootballtimes.co/2016/04/06/the-intriguing-history-of-former-bosnian-behemoths-velez-mostar/
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1922年にその産声をあげたFKヴェレジュ・モスタルは、早い段階から同じ都市のHSKズリニスキ・モスタルと熾烈なライバル抗争を演じるようになった。1905年にクロアチア系住民の手で創設されたボスニア・ヘルツェゴビナ最古のフットボールクラブであるズリニスキと、元々イスラム系住民の手で1906年に作られたイッティハードやその他労働者階級の複数クラブを母体して輪廻転生したヴェレジュがその様な関係になることは自明の理だった。
クロアチア系極右国家主義者の温床となったズリニスキと、赤の軍団の声援を受け、自らも赤いユニフォームを身に纏いピッチの上に立ったヴェレジュの対立構造は年を重ねるに連れ激化していった。ヴェレジュのスタジアムには左翼主義者と多民族主義者、そしてユーゴスラヴィアの共産主義者が集うようになった。
1945年、第二次大戦時にユーゴスラヴィア戦線においてチトー元帥のパルティザンが勝利を収めると、クロアチア系のズリニスキはその活動を禁じられるようになった。結局、彼らの活動が再開されたのは1992年、実に47年後の事だった。
その間、「ロデニ」(誕生)の異名を持つヴェレジュはモスタル地区第一のフットボールクラブへと変貌していった。1952年にユーゴスラヴィア・リーグへ初めて参戦すると、すぐに2部へ降格するも再び再昇格。その後十数年間は順位表の中位に定着し続けた。
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リーグ戦での最高順位は1965-66年シーズンの3位だったが、このシーズンの話題は「プラニニッチ・アフェア」─それまで国内では幾度となくファンの話題には登ってきたものの、ついにその存在が露見した大規模八百長事件─によって取って代わられることとなった。
この事件は、数シーズン前に降格寸前だったNKトレシュネフカとハイドゥク・スプリトの2チーム、そして告発元のランコ・プラニニッチ選手が所属したFKジェリェズニチャル・サラエヴォが共謀して八百長を演じ、降格を防ぐことになったというもので、結果的に多くのフットボール関係者の生涯、あるいは短期追放を招いた。
日本のフットボールファンとしては、この時に1年間の出場禁止を言い渡された選手の中にイビチャ・オシム氏の名が連なっていることも興味深いだろう。彼は積極的にか消極的にか、ジェリェズニチャルの選手としてこの事件に関与していた。
続く66-67年シーズンには10位、さらに翌シーズンには14位とヴェレジュの選手層は高齢化の一途をたどっており、チームは若返りを渇望していた。そこでチームは、かつてのクラブ、そしてモスタルという都市にとって戦後初のスーパースターである、38歳のスレイマン・レバツに指揮を一任するという大英断に出た。
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16チームから18チーム制へと変わった68-69年シーズン、レバツは自クラブのアカデミーを卒業した選手たちを信頼し、起用し始めた。彼らはいわゆる「戦争を知らない世代」、チトー主義の申し子達だった。
レバツ監督時代に特に顕著にその才を知らしめたのは、ストライカーのドゥシャン・バイェヴィッチ、ゴールキーパーのエンヴァー・マリッチ、そして中盤のフラニョ・ヴラディッチの3人と言えるだろう。
「ネレトヴァの貴公子」の二つ名を恣にしたバイェヴィッチは1966年シーズンにトップチームでデビューを果たし、1970年、彼の21度目の誕生日となる日にOFKベオグラードの名手スロボダン・サントラッチを袖に引っ込めゴールデンブーツの栄冠を獲得した。
69-70年シーズン、ヴェレジュは下馬評を覆しリーグ戦3位に入り込むと、多くの評論家達を驚愕させた。中でも特筆すべきは、リーグ優勝を飾ったレッドスター・ベオグラードの67ゴールに比肩する、64ゴールという金字塔だった。
当時のレッドスター・ベオグラードは、後にユーゴ代表やレアル・マドリーなどでも指揮を取り、ビセンテ・デルボスケやホセ・アントニオ・カマーチョらを教え子に持つミリャン・ミリャニッチが率いていた。彼らは国内だけではなく欧州でも覇を競う王者だった。
ベビーフェイスを取り揃えた前線ばかりが話題の対象ではないだろう。マリッチは旧ユーゴ史上有数のゴールキーパーとしての名声を博した。忘れがたい口ひげをたっぷりと蓄えた男だった。トリオ最年少のヴラディッチはレバツが18歳でデビューさせた期待の新星で、彼の創造性あふれる才能は新造のビイェリ・ビリイェグ・スタジアムに詰めかけた25,000人の心をときめかせた。
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3人はそれぞれの頭文字に肖って「BMV」(Wはセルビア・クロアチア語のアルファベットには存在しない)と呼ばれた。もちろん、ドイツの自動車メーカーを表す3文字を意味している。
さらにこの3人は、モスタルに住む3種類の人々を代表していたとも言える。バイェビッチはセルビア人、マリッチはムスリム、そしてヴラディッチはクロアチア人であった。
もちろん、レバツ監督の元で頭角を現したのはこの3名だけであるはずがなかった。レバツの若返り策は、様々な選手が相互関与しあって成功へと繋がっていった。
モスタルより北、ヤブラニツァ出身のヴァヒド・ハリルホジッチは1971年にユースから昇格してデビューを果たすと、すぐにバイェビッチとともにユーゴスラヴィアフットボール史上名高い危険なコンビネーションを形成することになる。この2人組はリーグ戦で通算269ゴールをクラブに齎した。
若きセンターバック、ボロ・プリモラツと左サイドバックのジェマル・ハジアブディッチは後にユーゴ代表にも選出され、ヤドランコ・トピッチやモムチロ・ヴコイェが前線に花を添えた。
それら若き選手たちを加え、72-73年シーズンにはクラブ史上最高位となるリーグ戦2位まで上り詰めた。首位に立つレッドスターは、ドラガン・ジャイッチやヨヴァン・アシモヴィッチ、ヴラディミル・ペトロビッチといった才能ある選手を多数抱えたスター軍団だった。
翌シーズンも快進撃を続けたヴェレジュは、念願のリーグ制覇まで紙一重に迫るも得失点差で神憑り的な活躍を見せたトミスラフ・イヴィッチ率いるハイドゥク・スプリトの後塵を拝し再び2位に終わった。このシーズンのヴェレジュの勝利数は「ダルマチアのプライド」(=ハイドゥクの二つ名)よりも上回っていた。
彼らにとって不運だったことは、時代が40年ほど前だったということだろう。現行のシステム─つまり勝利すると勝点3が加算されるシステム─で計算した場合、優勝していたのは他ならぬヴェレジュだったのだから。
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レバツとBMVの3人にとってせめてもの慰めだったのは、翌シーズン終了後にユーゴスラヴィア代表への参加が認められたことだろう。彼らの6年間の快進撃の賜物だった。
彼らが参加したのは、歴史的には西ドイツとオランダの大会として知られている1974年のワールドカップだった。レバツはミリャニッチやイヴィッチらを含む5人のコーチングスタッフの1人として代表へ合流した。
バイェビッチは自身がハットトリックを達成し、9-0で勝利したザイール戦の中心人物となった。ユーゴ代表はグループステージBにおいてブラジルを押さえ首位となり、次のステージへの進出を決めたが、セカンドステージでは西ドイツ代表に破れるなど勝利を収めることができず敗退することとなった。同組には、王者西ドイツのほかグジェゴシ・ラトー擁するポーランドやスウェーデンが同居していた。
ユーゴ代表がワールドカップで戦う中、レバツと彼の選手たちは真価を発揮することができなかった。唯一すべての試合でプレーしたのはマリッチで、ヴラディッチは出場機会を得ることもできなかった。マリッチは大会のパフォーマンスが評価され、1976年にブンデスリーガの巨人、シャルケへと移籍することとなる。
また、バイェビッチ、ヴラディッチもマリッチの後を追うようにギリシャのAEKアテネへと移った。斯く言うレバツも1976年の夏にクラブを去ることとなるが、置き土産としてチームをUEFAカップ準々決勝へと導いた。欧州の強豪だったスパルタク・モスクワやラピード・ウィーン、ダービー・カウンティを退けての快挙だった。トウェンテに破れベスト4進出はならなかったが、クラブ史上比類ない成果といえる。
レバツやBMVがクラブを去った後も、ヴェレジュは中位の古豪としてリーグに留まり続けた。
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1980年5月にティトー元帥がこの世を去りユーゴスラヴィア全土が喪に服していたころ、ミロシュ・ミルティノビッチが監督に就任して短期的な成功を収めた。かつてバイエルン・ミュンヘンの前線に名を連ねたこの男は、ユーゴスラヴィアでは「プラヴァ・チグラ」(金髪の笛)の愛称で知られていた。(1994年にアメリカ代表を自国開催のワールドカップで決勝トーナメントに導いたボラ・ミルティノビッチは彼の弟にあたり、もうひとりの兄弟もフットボーラーとなった。)
彼はこのシーズン、ヴェレジュをジェレズニチャルとの国内カップ決勝へと導いた。この決勝戦は、カップ戦が始まった1946年以来始めて両チームがボスニアのクラブとなった試合だった。ボスニアのクラブはそれまでカップ戦で優勝したことがなかった。
多くのボスニア人たちがベオグラードへ集結した。試合開催地はレッドスターの本拠地、マラカナ・スタジアムだった。5月24日の暖かな日だったと言う。ヴェレジュのサポーターは、愛するクラブが始めてメジャータイトルを手にする瞬間を目撃するためにモスタリより長旅を乗り越えた。
ジェレズニチャルの監督を務めていたのはイビチャ・オシムだった。彼は自軍がメフメド・バジャレヴィッチのPKで先制したことで頬を緩めただろう。理想的なスタートだった。ハーフタイムを終え、試合は1-0となった。
後半開始して10分ほど経過したころ、試合を動かしたのはリーグアンのナントへの移籍が決まっていたハリルホジッチだった。55分、58分と立て続けにゴールを決め、ヴェレジュにつかの間のリードを齎した。その後、主審の無情な笛でジェレズニチャルに再びPKが与えられた。落ち着いてネットにボールを沈めたのは、またもバジャレヴィッチだった。
試合残り10分でヴェレジュはコーナーキックの僥倖を得た。ブラジュ・スリシュコヴィッチより放たれたボールは宙で弧を描き、ゴールの反対側で最も高く飛翔したハリルホジッチの頭に衝突した。こぼれ球にチームメイトのドラガン・オクカがすばやく反応し、ボールはゴールラインを越えた。息を潜め、スタジアムで趨勢を見守った3万を超えるヴェレジュファンは、事の次第を把握し、雷鳴を轟かせた。
選手たち、スタッフ、そしてサポーターは夜通し勝利を祝福した。街中に、そしてヘルツェゴビナへの帰路にも、彼らの「ロデニ!ロデニ!」の声がこだました。
マラカナでの記念すべき試合でゴールを守ったマリッチは、 アテネで数年間を過ごしたバイェビッチとヴラディッチ同様、ヴェレジュへ帰還していた。ベテラン選手たちの庇護の下、新たな世代のスーパースターも生まれていた。
アヴド・カライジッチは1977年にデビューを果たした。18歳の新鋭はボロ・プリモラツの抜けた守備の穴を的確に埋めてみせた。ヴラディミル・マチエヴィッチとベセリン・ドゥラソヴィッチはレバツ時代晩年にデビューし、80年代初頭にはチームでディフェンス陣を牽引する存在となった。オクカはレバツの作り上げた揺り籠で70年代中盤を過ごし、この時期にはフィールド中央でチームのタクトを振るうようになっていた。地元出身のウィンガー、ヴラディミル・スコチャイッチは決勝のスターティングラインアップに名を連ねたが、このシーズンのディナモ・ザグレブ戦で4ゴールを奪った瞬間が彼のハイライトだった。
これらの輝かしい選手たちがいたにも関わらず、ヴェレジュファンがもっとも熱い声援を送ったのはスリシュコヴィッチだった。足元の技術に長けたこのミッドフィールダーの父も、数十年前にヴェレジュで選手としてプレーしていた。ファンは、愛情を込めて彼を「バカ」と呼んだ。しかし、彼はハリルホジッチ同様、このシーズン終了後にハイドゥクへと去ってしまった。
両選手を欠いたヴェレジュは、80-81年シーズンに苦しい戦いを強いられることになった。サポーターたちが赤い悪魔の名を持ち、現在では赤軍と呼ばれるグループを新たに形成し始めたのもこの時期だった。
【後編はこちら】https://eafaaf.blogspot.com/2020/04/blog-post.html
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