フットボールの話をしよう - ヴェレジュ・モスタル小史(後)


【前編はこちら】https://eafaaf.blogspot.com/2018/04/blog-post_29.html

1982年夏にミルティノビッチが去ると、50年代にレバツの傍らで驚異的な活躍を見せたムハメド・ムジッチが後任に就いた。76-77年シーズン以来、2度目の監督就任だった。しかし82-83年シーズンを中位で終えた後、引退したばかりのバイェビッチに取って代わられた。バイェビッチの36歳の誕生日のことだった。

85-86年シーズン、ホームゲームで申し分のない結果を残し、ヴェレジュはリーグ戦を3位で終えた。彼らの上に鎮座したのはベオグラードの2クラブだった。今日に至るまで激しく論争が巻き起こっているシーズンだった。

バイェビッチとヴェレジュはユーゴスラヴィアカップの準々決勝でリーグ戦で王者になるパルチザンを下し、「すべての監督の監督」の二つ名を持つ名将「チーロ」ブラジェビッチ監督率いるディナモ・ザグレブとの決勝戦に臨んだ。舞台はパルチザンの本拠地、JNAスタジアムだった。

クロアチアを代表するディナモ・ザグレブはイスクラ・ブゴイノスラヴォンスキ・ブロドラドチュキ・ニシュといった並み居る強敵を下しながら勝ち上がってきた。準決勝ではライバルのレッドスターを4-0で破壊し、堂々と決勝戦へ駒を進めた。多くの者が、彼らこそ優勝候補だと考えていた。ヴェレジュ側は11人のうち7人が25歳以下で、黄金時代のメンバーは主将のマティイェビッチスコチャジッチを残すのみだった。

ネナド・ビエジッチが試合開始6分にペナルティを冷静に決めると、ヴェレジュ側が前半を支配した。後半が始まってからもその状況は変わらず、ビエジッチがマティイェビッチのお膳立てからランコ・ストイッチの守るディナモ側のゴールに2点目を突き刺した。51分のことだった。

その1分後には中盤で圧倒的な才を誇ったマルコ・ムリナリッチが見事なフリーキックからディナモに得点をもたらすも、肉体派のディフェンダーとして名の知られたズヴェズダン・ツェトコビッチがオフ・ザ・ボールの場面で肘鉄を見舞ったために75分に退場となると、あっという間に形勢はヴェレジュに傾く。モスタル育ちで前シーズンまでディナモに所属したプレドラグ・ユーリッチが試合終了間際の87分に3点目を決めると、ディナモに反撃の気力は残されていなかった。アディショナルタイムにマティイェビッチが退場となったのは試合の添え物に過ぎなかったと言える。

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この時代のヴェレジュにも、やはり注目すべき選手たちが所属していた。

ディフェンダーのゴラン・ユーリッチは後にレッドスターやディナモで7度のリーグタイトルを獲得し、1998年ワールドカップではブラジェビッチ監督のクロアチア代表を3位に導いた男だ。キャリア晩年にオジー・アルディレス監督指揮下の横浜F・マリノスへ加入し、ベテラン選手としてチームを支えながらJリーグ1部でファーストステージ優勝の栄誉も勝ち取っている。

70年代の黄金期の一員だったジェマルの弟ミリ・ハジアブディッチは80年代に頭角を現し始め、イスメト・シシッチと共にヴェレジュ防衛を預かった。

左翼を駆け上がったセミル・トゥーチェは85-86年シーズンのユーゴスラヴィア年間最優秀選手に選ばれ、イビチャ・オシムに呼ばれ代表合宿へ合流。86年の決勝でベンチを温めたウラジミール・グデリメホ・コドロと共に90年代初頭までヴェレジュのツートップを形成した。グデリは後にセルタへ、コドロはソシエダへ移籍し、90年代前半のラ・リーガ得点王争いの常連となった。若き両名の活躍は、かつての看板だったバイェビッチとハリルホジッチを彷彿とさせるものだったと言えよう。

86-87年シーズンは首位のパルチザンを上回る勝ち星を重ねてリーグ戦2位に終わった。バイェビッチが愛するクラブを最後に指揮した翌シーズンは首都の2チームに次ぐ3位の好成績だった。優勝したのは後に名古屋グランパスのレジェンドとなるドラガン・ストイコビッチが頭角を現しはじめたレッドスターだった。

このシーズン、ヴェレジュはUEFAカップの出場権を行使してわずかな期間ヨーロッパの舞台に参加した。

1回戦、ホームゲームを5-0と大勝してシオンを下すと、2回戦ではボルシア・ドルトムントと顔を合わせた。ヴェストファーレンでの第1戦は0-2と厳しい状況だったが、第2戦ではビイェリ・ビリイェグ・スタジアムのアリーナ席が3万人のファンで埋め尽くされた。

グデリが受けたボックス内で受けたファウルによりペナルティキックの機会を得たものの、トゥーチェが蹴りこんだボールはヴォルフガング・デ・ベアに止められた。結果的に2-1の勝利を収めたヴェレジュだったが、わずか4戦を戦ってUEFAカップから敗退した。

シーズンの終わりにバイェビッチがAEKへ去ったヴェレジュは翌季もUEFAカップへ進出した。APOELとポルトガルのベレネンセスを下したが、ハーツ相手に0-3の敗戦を喫すると3回戦で大会から姿を消した。この試合が、現在の所彼らの最後の欧州戦である。また、1989年のカップ戦決勝、パルチザンに許した1-6の敗戦は現在でも大惨事としてファンの心に刻まれている。

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89-90年シーズンは不穏なシーズンだった。その象徴が、ディナモとレッドスターの試合で起きた暴動だった。

1980年代半ば以降、ポーランドに端を発し旧共産圏諸国を飲みこんでいった東欧革命の波は、当然のことながらユーゴスラヴィアにも及んだ。1990年春、連邦内の各共和国で初の自由選挙が行われると、セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチやクロアチアのフラニョ・トゥジマンに代表される民族主義者が政権を握り始める。

その政党の支持者たちが情熱を発散させる場所の一つこそ、フットボールスタジアムだった。
特にリーグ内で長年熾烈な優勝争いを繰り広げてきたディナモとレッドスターのサポーターたちは、選挙終了後からわずか1週間が経過したばかりの宿敵との対戦を心待ちにしていたかもしれない。

スタジアム内での両陣営の衝突、投げ込まれる発煙筒、催涙ガス、警察の介入、投石、乱戦…。
およそフットボールの試合に似つかわしくない地獄絵図が繰り広げられた結果、アウェイチームだったレッドスターに3⁻0の認定勝利が発表された。

規模は違うが、4月25日に執り行われたサラエヴォとディナモのリーグ戦でも同様の事件が発生した。スタンドより心無いサポーターがボトルを投げ入れ、ピッチ上で裁定していたラインマンに激突。即座に試合は中断され、スポーツ裁判所の案件入りとなった。

結果的にディナモは3⁻0の認定勝利を収めたが、リーグ戦全日程終了後にサラエヴォ側が上訴したことで状況は奇妙な方向へ動く。フットボール連盟が再試合を決定し、その試合をサラエヴォが1-0で勝利すると彼らは降格圏から抜け出した。

代わりに降格圏に落ちてしまったのは、ヴェレジュだった。ヴェレジュがこの裁定を不服とし、フットボール協会に申し立てると、協会はこのシーズンの降格クラブを1つだけにするという特例措置を実施した。

低迷期に落ちたヴェレジュだったが、希望の光が全く存在しなかったわけではなかった。
国内クラブのユースチーム同士が戦うカップ戦において、彼らはこの時期に2度決勝まで進出し、1989年にはクラブ史上唯一のタイトルを獲得した。そのメンバーの中には、のちにドイツへ渡ってキャリアを築くことになるセルゲイ・バルバレフが含まれていた。

選手としてもコーチとしても長年にわたってクラブに貢献したフラニョ・ジディッチが1990年に監督就任すると、ユーゴスラヴィア解体までの最後の2年間で優秀な若者を育てた。

1人はモスタル出身のバルバレスで、ハノーファーとのプロ契約前には地元クラブで修練を積んだ。ドイツの巨人、バイエルン・ミュンヘンで活躍したハサン・サリハミジッチも、この「橋の街」の袂から育っていった。

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ヴェレジュはユース育成に定評があったが、その基礎を築いたのは誰あろうレバツだった。
フェレンツ・プスカシュが亡くなったのとほぼ同時期、2006年に77年の生涯を終えたレバツを、一番の愛弟子だったバイェビッチはこのように讃えている。

「彼は単なるコーチにとどまらず、人生の教師であり、紳士になる方法を私に教えてくれた。それは誰の心からも消え去りはしないだろう。彼が私たちに惜しみない愛を注いでくれたから、私たちも同じように他人に愛を注ぐことが出来るのだ」

彼の教え子たちについて、足跡を簡単に記そう。

「ネトレヴァ川の貴公子」との異名を取ったバイェビッチは1988年に生まれ故郷を離れ、AEKとオリンピアコスで4つのタイトルを獲得した。ギリシャ国内でも有数の監督と称され現在ではボスニア・ヘルツェコビナの代表監督を務めている。

マリッチはベレジュのゴールキーパーコーチに就任。1990年代にはフォルトゥナ・デュッセルドルフ、2000年代にはヘルタ・ベルリンで同様の役割を果たした。

ハリルホジッチは2014年のワールドカップでアルジェリアをベスト16に導いた後、日本代表の監督を一時的に務めた。それ以前はパリ・サンジェルマンリール、ディナモ・ザグレブなどでも辣腕を振るった。

プリモラツは90年代初頭にカンヌヴァランシエンヌで指導を行ったのち、アーセン・ヴェンゲル指揮下のアーセナルに合流。彼が退団する2018年までコーチとして智将を支えた。

ジェマル・ハジアビッチは中東でコーチングキャリアを築き上げ、オクカは中国超級リーグの各クラブを渡り歩いている。

スリシュコビッチはジャーニーマンとして様々な地域で活動を続けていたが、最近になってズリニスキの監督としてモスタルへ帰還。そのままこの地でキャリアを終えるつもりかと思いきや、今度は香港へと旅立ってしまった。2011年にハイドゥク・スプリトのオールタイムベストイレブンに選出された彼は、若きジネディーヌ・ジダンにも影響を与えたという。

レバツ時代にディフェンダーとして活躍したアレクサンダー・リスティッチもまた指導の道へ進んだ。指揮を執ったのはすべてドイツのクラブで、特にフォルトゥナ・デュッセルドルフでの長きにわたる貢献により「アレックス王」の愛称を授かっている。

80年代半ばから後半にかけてクラブに所属した若手選手の多くは、ヴェレジュから飛び立って各地で卓越したキャリアを築いた。1986年のユーゴスラヴィアカップ決勝の英雄、ビエジッチは翌年ブルサスポルへと移籍し、「皇帝」と呼ばれるようになった。引退後もトルコ各地で監督業を営んだが、2011年に52歳の若さでこの世を去っている。白血病だった。

トゥーチェは1989年にスイスリーグ王者のルツェルンへ移籍し、カップ戦のタイトルを手にした。1995年の引退後もスイス国内に居を構えている。グデリは前述の通りラ・リーガのセルタで8年を過ごし、105ゴールを上げてクラブ最多得点ランキングの2番目に名を刻んだ。現在でもセルタのバックスタッフとして働いている。グデリと共に危険なツートップを形成したコドロはソシエダ在籍時にヨハン・クライフに見初められ、バルセロナへと移籍。その後もスペインで指導者として活躍した。

バルバレスは内戦を避けてドイツへ移籍した。最初はハノーファー、次にハンザ・ロストック、ボルシア・ドルトムント、バイエル・レヴァークーゼンとブンデスリーガに根を張った。サリハミジッチのバイエルンでの活躍については、ここで触れるまでもなく読者諸氏の脳裏にこびりついているだろう。

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1992年3月、サラエヴォで一発の銃弾が放たれると、サラエヴォ市内は即座にバリケードと検問所で封鎖された。

モスタルでは即座にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍(ARBIH)クロアチア防衛評議会(HVO)と結合し、市の支配権を握っていたセルビア人が統制するユーゴスラヴィア人民軍(JNA)を抑え込んだ。しかし、この二つの異分子がいつまでも友好関係を保っていられるはずがなかった。

ヘルツェコビナ出身のクロアチア人は、ザグレブから下ったクロアチア大統領フラニョ・トゥジマンの指揮のもとヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国を結成した。そのトップに立ったのはマテ・ボバンだった。

後にクロアチア-ボスニア内戦と呼ばれるARBIHとHVOの間の激しい戦闘が開始されると、モスタル市内東部でも10カ月に及ぶ激しい戦闘が繰り広げられ、都市西部在住のイスラム教徒が強制的に追放された。その後、スタリ・モストの大規模破壊が行われた。

ビイェリ・ビリイェグ・スタジアムとヴェレジュも例外ではなかった。
HVOはスタジアムの支配権と所有権を掌握し、市内東部への撤退を余儀なくされたクラブ役員たちを追放した。ハリルホジッチはこの際に負傷を負ってしまったが、結果的に傷は回復し市民の3分の1と市外へ逃げることに成功した。

ヴェレジュが去ったビイェリ・ビリイェグを自らのホームであると呼称し始めたのは、1945年以降禁じられてきた活動を再開したクロアチア系のズリニスキだった。彼らが最初に獲得したのは、ヴェレジュで活躍したスラヴェン・ムーサだった。ヴェレジュは精神的なつながりを持つスタジアムから追放され、モスタル市北部郊外にあるヴラプチチ・スタジアムに寄生した。収容7,000人とかつてのホームとは比べ物にならない規模だった。

両チームの対戦はボスニア・ヘルツェゴビナが正式にリーグを創設する2000年代まで待たれることになった。開始初年度こそヴェレジュは5位とまずまずの成績を収めたが、それが現時点での彼らの最高順位だ。その後は1部と2部を行ったり来たりするエレベータクラブとして過ごしている。対照的にズリニスキはビイェリ・ビリイェグを手に入れ、現在までにリーグ戦6度の優勝を飾っている。

2つのファングループの政治的イデオロギーも真っ二つに分断されている。
ズリニスキの熱心なサポーターグループはクラブの歴史全体に存在する分離主義的な考えを体現しており、クロアチアのナショナリズムと右傾化思想に関するバナーをスタンドに掲げている。一方ヴェレジュ側は支持者の大多数がイスラム教徒であるにも関わらず、チトー元帥やありふれた左翼思想を暗示した旗を誇示しており、時には反ファシズム的つながりを隠さない。

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ヴェレジュが現在直面している問題の多くは行政の不備、財政やリソース不足などの内的要因によるもので、加えて街からの人材流出が衰退に拍車をかけてしまった。その根幹となる出来事はビイェリ・ビリイェグを失ってしまったことに他ならない。3つの民族をつないだ要塞だったかつての本拠地は、彼らがピッチ上で体現してきた融和の他ならぬ証左だった。

世界に点在するヴェレジュのサポーターたちは、彼らのチームがユーゴスラヴィア、ひいてはヨーロッパで活躍してきた幸せな時代を振り返ることしか出来ないだろう。共産主義によってその命運を大きく捻じ曲げられた他のクラブ同様、彼らの歴史は「戦前」と「戦後」で分断されている。

しかし、フットボールファンであれば、誰もが目にし記憶している。
この「橋の街」が輩出し、世界中に旅立っていったフットボーラーの姿を。
宗教や民族に捉われず、誰もが一つのチームとしてボールを追い続けていた、かつてのヴェレジュを。

その姿を見失わない限り、いつかヴェレジュも再建できると信じたい。
世界中から支援を受け、不死鳥のようによみがえった古い橋のように。

(校了)

元ネタ:https://thesefootballtimes.co/2016/04/06/the-intriguing-history-of-former-bosnian-behemoths-velez-mostar/

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