フットボールの話をしよう - 58年の魂 ~緑の男たちの闘い~


1958年のワールドカップには、栄光のトロフィーを争い16のチームが出場した。

その中の一つが北アイルランド代表だった。彼らにとっては最初のワールドカップの闘いだった。偉大なるピーター・ドハティーに率いられた緑の軍団だった。その中には、現在でも名の知られたグレッグやビンガム、マキロイ、マクパーランドといった選手たちが加わっていた。


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<Chap. 1 ジョーディーズ・イン・グリーン>

マンチェスター・ユナイテッドのレジェンド、サー・ボビー・チャールトンの実兄であり、1994年にはアイルランド代表を率いてアメリカワールドカップに出場したジャッキー・チャールトンは、1958年の北アイルランド代表について「最も攻撃的な選手は両サイドバックだった」と述懐している。

その2つのポジションは、2名のジョーディが占めていた。ディック・キースアルフ・マクマイケルだった。

ベルファスト生まれのキースはシニアキャリアを開始したリンフィールドFCで7年間を過ごした後、1957年シーズンよりセント・ジェームズ・パークへやってきた。移籍金は8000ポンドで、彼が移籍先のニューカッスルである程度の試合数に出た場合に1000ポンドのボーナスが支払われる契約だった。

リンフィールドで17歳にデビューしたキースは、1956年にアルスター年間最優秀選手賞を獲得し、マグパイズの関心を得ることとなった。彼らは当時、イングランドのトップリーグに所属していた。

キースよりも数年早くリンフィールドからニューカッスルへ移籍していたマクマイケルが、キースの獲得を強く進言したと言われている。キースはクラブ加入後、1962年にはキャプテンマークを巻くまでの選手となり、1964年に南のボーンマスへ移籍するまでの間に223試合に出場した。

アルフ・マクマイケルはアマチュアとしてクリフトン・ヴィルFCでキャリアを開始した後、プロの世界へやってきた。第2次大戦後すぐにリンフィールドへ移籍し、1947-48年シーズンとその翌シーズンにはリーグタイトル、カップタイトルを獲得している。

1950年に11,500ポンドの移籍金でニューカッスルへ移籍すると、13年間で433試合出場の偉大な金字塔を打ち立て、そのまま現役生活を終えた。

50年代のニューカッスルは、古豪になりつつあったクラブを立て直すフェーズにあった。
20世紀初頭に隆盛を誇ったタインサイドの雄も、1933-34年シーズンに2部リーグへ降格すると、戻ってくるまでに10年以上の歳月を要していた。幸いにして、彼らは戦時中にクラブ伝説の背番号9、ジャッキー・ミルバーンを獲得することに成功していた。

1951年のFAカップ決勝戦、ミルバーンの2ゴールでブラックプールを葬り去り栄冠を獲得すると、翌シーズンにもアーセナル相手に1-0で勝利をおさめて2連覇。この試合には、マクマイケルも出場していた。マクマイケルはクラブ、代表両方で主将をつとめ、この時代最高の左サイドバックと考えられていた。

キースとマクマイケルはニューカッスルで期待通りに成功し、1958年の夏にはスウェーデン行きの切符を手に入れていた。代表でもクラブでも分かちがたく密接な関係を築いた2人は、代表招集中のホテルも同室だった。


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<Chap. 2 狂乱のウィンザー・パーク>

しかしながら、北アイルランドのワールドカップ出場までの道のりは、決して平坦なものではなかったと言える。

あと1ポイントで本大会に出場できる、という状況でイタリアをホームのベルファストに迎えた1957年の試合。主審を務めるはずだったハンガリー人のイシュトヴァン・ゾルトは、ロンドンで立ち往生していた。

当時ブダペストのオペラハウスのマネージャーも務めていたゾルトは、ハンガリーからロンドンへやってくることはできたが、立ち込めた濃霧でベルファストへのフライトは欠航となっていた。11月の寒い日のことだった。

アイルランドFAは、この試合の主審を英国人のアーサー・エリスへ変更しようと上申。ストランラーでスタンバイしていたエリスは、フェリーでベルファストへ移動することが出来る状況だった。

しかし、自国有利のジャッジを恐れたイタリアFAがこれを拒否した。
確かに、あまりにも露骨すぎるアイディアだった。

最終的に、FIFAはこの試合を予定通り開催すると決定した。しかし、あくまで試合は親善試合として行われ、予選試合の催行を1カ月延期した。

初戦は熱のこもった一戦が北アイルランド人たちの目の前で繰り広げられた。
この試合に出場したビリー・ビンガムは、のちにこの一戦を2つの単語で振り返っている。
すなわち、「危険」と「暴力」だった、と。

ウィンザー・パークに詰めかけた4万の群衆は、その大半がFIFAの下した決定に納得していなかった。造船所で働いていた数千人の男たちは、この試合のために半日の休暇を取っていた。イタリア国歌が流れた瞬間、一触即発の不穏な空気が漂った。

試合開始後、イタリアの選手たちは即座に反応した。
当時フィオレンティーナ所属でのちにナポリやインテル・ミラノの監督職を務めることになるジュゼッペ・キアペッラがボールのない所でこぶしを繰り出すと、北アイルランド代表の選手だったダニー・ブランフがピッチに倒れこんだ。

1950年ワールドカップのウルグアイ優勝メンバーだったACミランのフアン・スキアフィーノ(当時は現在と違い、代表選択が自由だった時代だ)もキアペッラに続いた。ウィルバー・クーシュに暴行を加え、薙ぎ倒したのだ。

試合は予測不能な方向に転がり始め、地元のファンたちは激昂した。

「スキアフィーノは相手を見誤った」──ビリー・ビンガムはそう語る。
その通り、クーシュは地元では「リトル・アイアン・マン」という異名を授けられていた。引退後には、「Bスペシャル」として恐れられるアルスターの警察特殊部隊に入隊するほどの男だ。

不屈のクーシュは最後のホイッスルまでピッチ上に立ち続け、試合は2-2の引き分けで終わった。得点はどちらもクーシュが決めたものだった。本来であれば、この時点で北アイルランドの初めてのワールドカップ参加は決まっていたはずだった。

試合後、怒り狂った観客たちはピッチ上へ乱入。選手の中には暴徒に引きずり込まれ、骨折するものも出るほどだった。

三度、ビンガムの証言を聴こう。

「ウィンザー・パークはオーラをまとっていた。私自身、当時造船所で働いていたが、そこで働く男たちは好戦的な連中だ。更に悪いことに、イタリア人も状況に加わってきた。もうめちゃくちゃだった」

「私たちはみなおびえていたが、イタリア人選手たちを何とかしなければならないと思い、人々から遠ざけた。ウィンザー・パークのトンネルまで彼らをいざない、何とか控室に連れて行くことが出来た。何人かの人間がゲートを破壊しようとしていたがね」

ジミー・マキロイの証言も追加しよう。

「イタリア人選手たちが帰国する際、飛行機にブーイングが浴びせられた」

5週間後に行われた予選試合では、クーシュとマキロイがイタリア側のゴールネットを揺らし、北アイルランドが2-1で勝利した。緑のユニフォームに身を包んだ男たちが、紆余曲折を経てスウェーデン行きを決めた瞬間だった。


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<Chap. 3 グループ・オブ・デス>

北アイルランド代表の冒険が始まった。

彼らが組み入れられたのはグループ1。西ドイツ、チェコ・スロヴァキア、アルゼンチンが同居していた。いわゆる「死の組」である。

初戦はハルムタッドで行われた、チェコ・スロヴァキア戦だった。いきなり優勝候補との一戦。多くのファンが、北アイルランドは最悪の相手を引いたと考えていた。しかし、運のいいことに、ハルムスタッドの観客は北アイルランドに同情的だった。緑の男たちは、まるでホームのような雰囲気の中で試合に望むことが出来た。

1958年2月6日に起きたミュンヘンの悲劇において、攻撃面で重要な選手だったジャッキー・ブランチフラワーが負傷し選手生命を絶たれてしまったドハティー監督は、レスターシティでフルバックを務めたウィリー・カニンガムを中盤にコンバートし、さらに他の負傷選手に代わりデレク・ドーガンをセンターフォワードへ起用するという天啓を得た。

試合では、ゴールキーパーのハリー・グレッグの活躍も光った。彼は過日の悲劇においてボビー・チャールトンやブランチフラワーなど、チームメートたちを飛行機から救い出した「ミュンヘンの英雄」と称された男で、マンチェスター・ユナイテッド史上最良の門番と評価されている。

チェコ・スロヴァキアの猛攻が幾度となく北アイルランドのゴールを襲ったが、グレッグはしのぎ切って見せた。もしもこの時ゴールを許してしまっていたら、北アイルランドの冒険は初戦で潰えてしまっていたかもしれない。

前半にピーター・マクパーランドが中央に陣取るクーシュの頭めがけてボールを蹴りこむと、そのままネットに吸い込まれた。1-0で北アイルランドが勝利した。大金星だった。

2戦目はアルゼンチンとの試合だった。試合開始早々にマクパーランドがゴールを決めるも、アルゼンチンの逆襲に遭い、1-3で逆転負けを喫した。グループステージ突破は最終戦の前回大会王者、西ドイツとの試合にゆだねられた。

西ドイツ相手に、選手たちは勇敢に立ち向かった。マクパーランドは相手DFを容赦なく襲い、2ゴールを挙げた。西ドイツはゲルマン魂を見せつけて追いついたが、2-2の引き分けで終わった。

この試合の結果、1位の勝ち抜けは西ドイツで決定した。
2位は勝ち点で並んだ北アイルランドとチェコ・スロヴァキア。決勝トーナメント進出のため、両チームのプレーオフが開催されることになった。

試合開始後、18分にズデネク・ジカンがゴールを決め、北アイルランドは劣勢に立たされた。開幕戦で泥を塗られたチェコの面目躍如だった。その直後、ゴールキーパーのノーマン・アップリチャードがゴールポストに自らの踵と手をぶつけ、負傷してしまう事件も発生した。正守護神のグレッグが出場できなかったため控えのキーパー不在で、怪我をしながらアップリチャードはピッチに立ち続けた。

前半終了2分前、今度は北アイルランドが反撃に出た。ほかの誰でもなく、マクパーランドが蹴りこんだシュートが相手のネットに突き刺さったのだ。1-1で振り出しに戻った試合は、90分の間には決着が付かなかった。

延長戦で運命を決めたのは、やはりマクパーランドだった。大会史にのこる鮮烈なボレーシュートでリードを奪うと、彼らは初出場にしてベスト16進出という快挙を達成した。


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<Chap.4 アフター・ザ・カーニバル>

決勝トーナメントで彼らを待ち受けていたのは、かの高名なジュスト・フォンテューヌが牽引していたフランス代表だった。チェコ・スロヴァキア戦ですべてを出し尽くした北アイルランドは、4-0と粉砕されてしまった。それが、緑の男たちの冒険の終わりだった。

長らくマンチェスター・ユナイテッドの英雄として過ごしたグレッグは、現役引退後コーチ業に進み、イングランド、ウェールズの数クラブで指揮を執った。1995年には大英帝国勲章を受勲した。サー・ボビー・チャールトンとグレッグの二人だけが、ミュンヘンの悲劇を経験して現在も存命である。

ビンガムもまた、現役引退後に監督となった。数度にわたって北アイルランド代表の指揮を執ったが、中でも特筆すべきなのは1982年のワールドカップ・スペイン大会で58年以来のベスト16にチームを誘い、次の86年メキシコ大会でも本大会出場に導いたことだろう。

マキロイは現役時代を通じてバーンリーFCで439試合に出場したレジェンドとなり、現在でもホームゲームの際にはターフ・ムーアで元気な顔を見せている。

マクパーランドは62年にヴィラ・パークを去るとライバルチームのウルブズへ移籍し、熱心なヴィラファンの反感を買った。その後はアメリカ大陸へ渡り、71年に選手生活を終えた。

マクマイケルは現役引退後、タイン・アンド・ウェアーのサウスシールズFCの監督に就任すると、母国へ戻りバンガーFCでも指揮を執った。

キースはイングランドで地歩を築き、ボーンマス退団後にノンリーグのウェイマスFCへと移籍した。引退後に建築業者として働いたが、ガレージの自動ドアを撤去している最中、不幸な事故に見舞われてしまう。降ってきたカンチレバーが頭に直撃し、そのまま帰らぬ人となってしまった。33歳の若さだった。


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現在では、多くのフットボールファンが1958年のワールドカップを若きブラジル人、現在では「神」と呼ばれるペレのための大会だったと記憶しているかもしれない。

しかし、アルスターの男たちがスタジアムで見せた「58年の魂」は脈々と北アイルランドのフットボールに引き継がれ、色あせることはない。

(校了)

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