フットボールの話をしよう - 「国民のチーム」と自由の要塞


1997年11月29日、イランではそれまで前例のない民衆の反抗運動が行われた。
時の指導者、アーヤトッラーアリー・ハーメネイーが築いた独裁政権への不満が爆発したものだった。

民衆たちは男性も女性もテヘランの街へ繰り出し、酒を楽しみながら禁止令の下っていた西洋音楽のリズムに身を委ね、踊りあかした。彼らの多くはヒジャーブを身に着けてさえいなかった。富裕層のロウハーニー派、そして革命防衛隊参加の民兵組織に所属したバスィージのメンバーもこれに加わった。
このような歓喜の表出は1979年のイラン革命でモハンマド・レザー・シャーが失脚して以降、初めてのことだったかもしれない。

この事件の引鉄は、とあるフットボールの試合におけるものだった。

メルボルンで行われた1998年フランスワールドカップ予選プレーオフ、セカンドレグ。イラン代表はオーストラリア代表を向こうに回し、出場権をかけて戦った。
前半32分にハリー・キューウェルのゴールでオーストラリアが先制すると、48分にアウレリオ・ヴィドマーがイランを突き放した。
しかし、カリム・バゲリが77分に一矢報いると、その3分後、歴史を変えるゴールがコダダド・アジジによって生み出された。

イラン代表は、テヘランの地で行われたファーストレグにおいて12万を超えるイラン国民が見守る中、1-1と悪くない結果を手にしていた。
そして、メルボルンでの第2戦を2-2で終えたことで、アウェーゴールのアドバンテージを得た彼らは史上2度目となるワールドカップ出場権を掌中に収めた。20年ぶりの快挙だった。

スポーツと文化・思想とを結びつけて描こうとした場合、多くは希薄で縁遠いものとなってしまうだろう。しかし、1990年代後半にフットボールが社会生活の中心へ戻ったイランでは少し状況が異なってくる。デヴィッド・ゴールドブラットが「The Ball is Round: A Global History of Soccer」の中で指摘したように、フットボールの競技場は「神権国家で保守派に敵対する者たちが集結する場所」として機能した。
その主な場所となったのが、1971年に建造され、10万人以上を収容するテヘランの国立競技場だった。そのスタジアムはペルシャ語でアザディ──すなわち「自由」と名付けられた。

1979年のイラン革命によってもたらされたイスラム化は、女性がアザディで試合観戦することを禁じるものだった。
だからこそ、メルボルンの勝利が引き起こした荒ぶる歓喜はその足かせを打ち破る手助けとなった。彼らはただ単に自国のワールドカップ出場を喜んだだけでなく、堂々と政治的抗議を行ってみせた。

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英国や西洋の植民化の影響で、世界のその他の地域と同じようにイランにもフットボールが伝わった。しかし、この競技は国家の社会的・文化的成長と不可分につながっている。
ある歴史家は「現代イラン史はイランのフットボールの歴史として紹介することが出来る」と語るほどだ。
西洋の影響はイランに多くのスポーツ競技を持ち込んだが、その促進はイランのシャー(君主)として権力を継いだレザー・パフラヴィーによって行われたものだった。

男性はローブを捨て、適切な洋服を着ることを法律で定められた。その振る舞いによって、イラン人男性に西洋の価値観を定着させることが出来るとレザー・シャーは考えていた。
彼にとってフットボールは近代化の象徴であり、フットボール競技場建造のためにモスクの破壊を命じた。
1947年、彼の子息モハンマド・レザー・パフラヴィ治世下にはイランサッカー連盟が設立された。

1960年代にはテレビが普及し、フットボールはイラン国民の情熱となった。彼らにとってこの競技は夢想の追求であり、西側世界への橋渡しだった。
イラン代表は1968年、1972年、1976年とアジアカップを3連覇したが、この栄光の発端となる試合があった。

1968年にイラン主催で開催された第4回アジアカップは、6日間戦争の影響でアフガニスタン、クウェートといった隣国のボイコットを招いたが、その決勝戦でイランが戦ったのはイスラエル代表だった。テヘラン市内のアムジャディ・スタジアムは収容25,000人の中規模な会場だったが、自国代表の戦いを見届けるため、当日は4万人近い民衆が集まった。

会場に押し掛けた彼らは、熱烈な反ユダヤ主義の声を対戦相手に投げつけた。
そしてこの試合での2-1の勝利は、フットボールを国内で大規模な現象へと押し上げる契機となった。

1979年に革命家達が国家運営を引き継いだ際、彼らはフットボールをレザー・シャーによって招かれた破滅的な近代化プログラムの産物であると見なした。しかしながら、新政権はポップカルチャーやその他主要なエンターテイメントの成長を阻害することには成功したものの、フットボールの鎮圧は政府の安定を阻害する可能性があると考えていた。
だが、1980年に開始した8年間に渡るイラクとの戦争の間、政府はフットボールチームの支援を全く行わなかった。

さらに、彼らは国内クラブチームを国有化し、群衆の反政府感情を検閲する目的でテレビでの試合放送をリアルタイムで視聴できないように規制し、女性の試合観戦を一切禁じる施策を行った。このことが、最終的に1998年ワールドカップ出場権獲得の際に起きたイラン国民の感情噴出に繋がることになった。
実際、メルボルンより戻ったイラン代表を出迎えた群衆の中には多くの女性が含まれていた。

オーストラリアとのプレーオフの数か月前、イラン国内で大統領選挙が行われた。
保守派の候補ナテク・ヌーリはイランの主要なプロレスラーに支持を呼び掛けたが、イスラム教と自由主義の共存を信じた改革派聖職者モハンマド・ハターミーはフットボール選手の力を借りた。イラン国民の多くがそうであったように、彼はフットボールを西洋への進歩的な橋がかりであると考えていた。そして、ハタミは選挙に勝ち続けた。

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1998年ワールドカップ出場権をオーストラリアとのプレーオフに委ねなければならない状況となった際、ハタミの支配下にあったイラン代表はブラジル人監督のヴァルデイル・ヴィエイラを招聘した。イラン代表に外国人監督が就任したのは初めてのことであり、ハタミの政策を象徴する出来事だったと言える。

ワールドカップ本選において、イランはアメリカを含むグループFに組み込まれた。
最終的にノックアウトステージへの進出はかなわなかったものの、スタッド・ジェルランで行われたアメリカ代表との試合で収めた2-1の勝利は国民の歓喜を呼んだ。
しかし、イランのテレビ局はワールドカップで実際にスタジアムに集った観客の映像を撮影しなかった。フランスのスタジアムに潜伏した過激派組織ムジャヒディンによる反体制派のメッセージが公共の電波に乗ることを危惧したためだった。

イランの宗教指導者達はフットボールが人民に与える有害な影響を真剣に捉えているが、フットボールは現在でもイランの政治的闘争の重要な手段として機能し続けている。
2005年に大統領としてハタミを成功させたマフムード・アフマディーネジャードは、フットボールがこの国に占めるユニークな精神的立ち位置を理解していた。彼は大統領選出後、女性の試合観戦を認める法律を可決したが、宗教的観点から立法を監視する監督者評議会によって却下された。
アフマディーネジャードはフットボールを、既存のルールに対する反撃のツールとして活用した。

2009年6月17日にアフマディーネジャードが再選されると、今度は抗議派がフットボールを活用した。2010年にソウルで行われた因縁のライバル、対韓国代表戦において、出場した6名の選手が、大統領選に敗北した改革派候補のミールホセイン・ムサーヴィーのシンボルカラーだった緑のリストバンドを着用した。
試合後、テヘランで行われた集会では、抗議派が高々とその6名の選手の顔写真を掲げていた。
それでも皮肉なことに、アフメディーネジャードはフットボールへの投資を行い続けた。

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ヴァルデイル・ヴィエイラ就任以降、イラン代表は多くの外国人監督を迎え入れ、自国の強化に努め続けている。

トミスラフ・イヴィッチミロスラヴ・ブラジェビッチブランコ・イバンコビッチハビエル・クレメンテカルロス・ケイロス、そして現在はマルク・ヴィルモッツ
外国生まれの選手を代表に召集することも多く、アシュカン・デジャガレザ・グーチャンネジャードメヘルダット・ベイタシュールがその代表だ。

フットボールがこのアーリア人の土地に伝わって以降イランが成し遂げてきた近代化、国際化、そして自由化は、この競技がいかに密接に思想や文化と結びついているかという証左と言える。
イラン代表の多文化主義は、抑圧的なイスラムの行動規範を超越する希望となってきた。

将来的に、歴史がその流れに逆行することがあろうとも、民衆はフットボールを武器に再び声を上げるだろう。だからこそ代表チームには、相応しい愛称がつけられている。チームメッリ、「国民のチーム」と。

そして彼らは集うだろう。アザディ──自由という名の要塞に。

(校了)

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